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【あらすじ】伊達政宗は18歳で家督を継ぐや、僅か5年で114万石の東北の覇者となった。だが天下の趨勢は豊臣秀吉にあり、天正17(1589)年の小田原攻めの翌年に秀吉に屈し、国替えで58万石。それでも鉱山開発を進めた政宗は経済力を付け、再び天下を視野に入れる。鉱山の技術者はキリシタンで宣教師だった。
慶長5(1600)年の関ヶ原以降、徳川の世となったが政宗は仙台城を築き、南の防衛も固めた。政宗を恐れた家康は江戸城などの普請を次々と命じ、伊達家の経済力を奪っていった。海外交易に活路を見出そうとした政宗は、慶長18(1613)年にサン・ファン・バウティスタ号を建造し、支倉常長をスペインに送り出した。
太平洋を渡りメキシコ経由でスペインに着いた常長は、1615(慶長20)年に国王フェリペ3世に謁見。自由貿易と布教歓迎の意を示し、政宗の領地をスペインに差し出すとまで申し出たが交渉は進まなかった。ローマからの支持も取り付けようとローマ教皇との謁見も果たすが色よい返事を得られなかった。
元和2(1616)年に家康が倒れ、政宗に謀反の疑いが掛けられる中、常長は元和6(1620)年8月24日に帰国。交渉の失敗を報告し、政宗はその日の内に領内でのキリシタン禁止に踏み切った。以降、幕府によるキリシタン禁止、大型船建造禁止、海外渡航禁止、外国貿易の幕府管理などの鎖国政策が強化されていく。
【感想】△
秀吉・家康に面従腹背で天下を狙い続けた伊達政宗の、最後の望みだった慶長遣欧使節団。その目的はスペインとの貿易だけでなくキリシタン勢力との連携にあった…という話。キリシタンとの繋がりを重視したために政宗の野望が中心に来て、使節団の模様が薄まり、どっちつかずになった印象。
鉱山開発や製鉄の技術をキリシタンが持っていて、それを重宝した政宗がキリシタンに保護的な姿勢でいた事、スペインとの交易でもキリシタンへの理解を最大限に示していた事は分かった。だがあくまでもキリシタンの持っている技術が政宗にとって第一で、スペインへの領土献上やキリスト国家の建国などは本音ではなかったのでは。
番組内では宣教師ルイス・ソテロがスペインに宛てた手紙の、「政宗は、迫害を受けている日本の30万人のキリシタンの力を得て幕府を倒し、みずから皇帝となって帝国を築こうとしている」との部分を強調していた。しかしこれも、ソテロがスペイン国王に取り入ろうとした言説に思えてならない。
解説者:平川新教授も、「これが事実だとしたら政宗の大胆な考え」と述べ、キリシタン重視に傾く番組のスタンスに一定の歯止めを掛けていた。学者の言う「事実ならば」との条件付きは、はっきり言ってその可能性に否定的という事。
スペイン国王の下には幕府によるキリシタン迫害情報がもたらされており、遠い日本での布教に利益が少ない事が分かっていたために支倉常長の使節団は厄介者扱いされた。同時に、伊達が徳川を倒せるほどの勢力でないとも思われていたのでは。
色よい返事をしなかったスペイン・ローマだが、その時歴史が動いた:島原の乱では支援するかのような手紙も出している。だが実際には何の援軍も出さなかった。南蛮人の手紙と実際の考え・行動には大きな差がある。ソテロの手紙も同様に大口を叩いただけと見るのが妥当だろう。
そんな文化の国だからこそ、支倉常長の領土献上演説も話半分であしらわれたのだろう。そして政宗や常長も、どこまで本気だったか怪しい所がある。天下さえ取れば方針転換などいくらでも出来る。秀吉も家康もそうしてキリシタン禁止を強化していったのだし。
明治より250年も前に自国の大型船で太平洋を渡り、欧州まで行って帰ってきた偉業には信じがたいものがあり、個人的には支倉常長の使節団の苦難の旅路や、欧州での生活ぶりなどを知りたかったのだが、そこまで網羅されず残念。
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支倉常長―慶長遣欧使節の悲劇
支倉常長―武士、ローマを行進す
支倉常長 慶長遣欧使節の真相―肖像画に秘められた実像
図説 伊達政宗
史伝 伊達政宗
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【あらすじ】昭和20(1945)年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾したが、宣言には軍人の帰国が明記されていただけで、民間人については示されていなかった。8月31日の終戦処理会議で日本政府は「在外邦人は現地に於て共存」との方針を出し、日本の人口の1割:660万人は異国に置き去りとなった。
特に200万人がいた満州では、8月9日にソ連軍が侵攻するや関東軍は南方に逃れ、捕虜となった男性60万人はシベリア抑留。女性・子供・老人には中国人とソ連軍による略奪・暴行を受けた。それを逃れるため長春に集まった11万人の中の有力者が日本人会を結成し支援活動をするが、すぐに22万人へ膨れ上がり、越冬できずに1万3千人が死亡。
昭和21(1946)年3月に日本人会の使者が吉田茂外相に引き揚げ実現を訴えるが、占領下の日本政府は無力と回答され、マッカーサーと面会。人道的立場から引き揚げ実施を約束された。その頃の旧満州ではソ連軍に代わって中国共産党軍が入り、アメリカは国民党軍を送り込んで内戦状態。
国民党軍を輸送して空になった船に引揚者を乗せ、日本政府も引揚援護局を設置し医療・食料・衣服・資金援助をした。博多湾では望まぬ妊娠をした女性の身投げが相次ぎ、堕胎手術を行う「二日市保養所」などで対応。ソ連はシベリア抑留者を復興の強制労働に利用し、彼らの帰国は昭和34(1959)年までかかった。
最終的に昭和36(1961)年6月27日に引き揚げは完了し、660万人の内628万人が帰国。だが中国残留孤児などの問題は未だ解決していない。
【感想】○
満州に置き去りとなった開拓民を中心に扱っているので、その時歴史が動いた:ソ連参戦の続編的な位置付け。満州軍に逃げられ、敗戦で無力となった日本政府から見放された開拓民。その引き揚げは米・ソ・中の大国間の思惑というパワーゲームに翻弄された。
そしてあまりにも悲惨な体験をした人々は、その記憶を封印して戦後を生き抜き、死を前にして重い口を開き始めているのが現状か。この記憶や事実に対してどうこう思うよりも、まずは知る事、知りたいと思う事が重要ではないかと思う。マスメディアには多数の声を集め伝える力があるのだから、もっとこうした企画を通していけばいい。
引き揚げに関しては国と個人、国家と国民の関係の無情さを感じずにはいられない。アジアに進出・侵略していった大日本帝国から、アメリカの支配下に入った日本政府は、自らの無力さを言い訳に邦人の現地共存を決め、660万人を置き去りにしようとしていたとは。
その本音は、国内の食糧不足や復興の遅れを懸念したからであるが、戦前の満州開拓団からしても、農村人口の爆発と恐慌による食糧不足、それによる人心荒廃で富国強兵策の失敗を恐れたために移民を進めたのであって、根本的な日本政府の発想は戦前も戦後も変わっていないのでは。
満州や中南米への移民政策は、政府の手に負えなくなった貧しい民を、体よく外へ放り出す棄民政策だった。引き揚げ問題より遥か以前に彼らは棄てられていた。
アメリカの占領地となった地域では戦後2年ほどで引き揚げがほぼ完了した。人道的とも言えるが、米国は太平洋戦争中に大増産体制を作り上げ(毎週空母が完成するほど)、終戦になると船があり余っていた面もある。その一方、軍人の復員に際しては旧日本海軍の軍艦を優先して使わせる小憎い演出もしてる。
アメリカのような余裕のないソ連は対照的で、2000万人を失った大祖国戦争からの復興に捕虜を使った。抑留者を共産主義者に転向させる事にも努め、転向者と非転向者に分かれた日本人に内部対立も起きた。
それとは別にシベリア抑留では、支給の食料が少ないために栄養失調になり多数が死んだが、直接の死因は栄養失調死よりも暴行死が多かった。死ぬ寸前の者は食料を離さないため、寄ってたかって暴行して奪ったからである。
開拓団に土地や生活を奪われた中国の人々は、その復讐に残った日本人を襲い、その事実は因果応報の論理や日本の侵略を持ち出す事でうやむやになっている。中国としても共産党と国民党の対立が米ソの覇権争いに利用された面もあり、本当の戦後はやって来なかった。朝鮮戦争の起きた朝鮮半島も同様に。
日本人への暴行・略奪の一方、人身売買もどきや、捨てられた日本人の赤ん坊を引き取って育てた中国人もいた。差別等で不利となるのを承知で妻に迎えた人もいた。赤ん坊を泣く泣く置き去りにするしかなかった日本人がいた一方で、望まぬ妊娠で自殺したり、赤子を堕胎した女性もいた。
各国の思惑や動向と、人々の様々な思いや行動が交錯し合い、引き揚げ者の運命は一様ではなく、個々の事象を知れば知るほど言葉を失っていく。番組内でも一言触れられていた樺太の韓国人の帰国問題。他にも徴用され、日本で強制労働に従事していた朝鮮・台湾・中国の人々の帰国問題などもある。もっと他にも知らないだけの問題があるはず。
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戦後引揚げの記録
水子の譜(うた)―ドキュメント引揚孤児と女たち
アジアの曙 死線を越えて
関東軍兵士はなぜシベリアに抑留されたか
テレビは戦争をどう描いてきたか
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【あらすじ】文化7(1810)年に武士の子として生まれた緒方洪庵は、8歳で天然痘を患い、一命を取り留めたものの体が弱く、武士に適さないと悟って17歳で家を出て蘭学・西洋医学を学ぶ。天保9(1838)年に大坂で蘭学を教える適塾を開き、医師としても活動を開始。
当時流行していた天然痘の予防は、人から摘出したワクチンを人に打つ人痘法。だが本格感染のリスクがあり、緒方洪庵もこれで死者を出してしまった。嘉永2(1849)年に牛からの牛痘ウイルスを摘出した牛痘ワクチンが日本に入り、洪庵は分苗式でワクチンを分けてもらい、除痘館を設けて予防の実践に入る。
しかし「牛のワクチンを打つと牛になる」との風説で人は来ず、資金繰りも苦しくなり、7日ごとに人から人へ植え継ぐワクチンも枯渇。仲間の医師も去っていく中、洪庵は地方の医師に分苗を進め、全国に186ヶ所のネットワークを築いた。
だが牛痘ワクチンと称して得体の知れない物を投与する詐欺が相次ぎ、洪庵は除痘館を幕府公認にしてもらうよう何十回も申請。ようやく安政5(1858)年4月24日、洪庵の予防活動は幕府公認となり、除痘館以外での種痘は禁じられた。5月には江戸でも種痘所が開設され天然痘の予防が本格化した。
【感想】○
福澤諭吉、大村益次郎、佐野常民らを生み出した適塾の開設者で天然痘の予防活動に尽力した緒方洪庵。彼が闘ったのは高い致死率の天然痘だけでなく、人々の風説による偏見や偽物の横行する世の中だった。
現在でもワクチンの効果は5〜10年経たないと分からないため、その有効性を説くのは中々難しいとの解説があり、江戸時代の洪庵の活動がもっと困難なものであった事は容易に想像がつく。
自身も天然痘に罹り、そこから天然痘予防に心血を注いでいく原点があり、その信念が揺らがなかったからこそ、資金難や仲間の離脱にも耐え、幕府公認まで取り付けたというのは分かりやすい。善人の良い話に終始しがちだが、人痘法で死者を出した汚点を挟み込んで人物像に深みも出している。
人痘法より安全な牛痘ワクチンの牛痘法だが、これは人の腕で培養しても7日しか効力を持たない。だから人から人へ植え継いでワクチンを維持する必要がある。この仕組みが洪庵と他の医師、培養者の信頼関係と不可分であるのが興味深い。分苗によるネットワークも地道に広げていった洪庵。
対して、ワクチンの有効性を失わせた風説・悪説や詐欺の横行による種痘への不信も、人から人への伝聞という負の情報ネットワークのなせる業であり、信頼と不信という人と人との良い面・悪い面が示されていて、言葉は悪いが面白い。
幕府公認は、権威付けされた事よりも非公認の種痘が禁じられた事が重要か。今回のその時はペリー来航の後の事であり、辛うじて幕府の権威が維持されていたギリギリで間に合った感じもする。その後の幕末で活躍した人物が、洪庵の適塾から輩出されたのも少し皮肉。洪庵には倒幕の意図はなかったようだが。
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緒方洪庵と適塾
緒方洪庵と大坂の除痘館
病いの克服―日本痘瘡史
二十一世紀に生きる君たちへ(司馬 遼太郎)「洪庵のたいまつ」併録
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【あらすじ】6世紀初め、ヤマト政権では天皇の力が衰え、地方豪族の争いが絶えなかった。506年に武烈天皇が崩御すると皇位継承を巡って混乱が増し、大伴金村と物部麁鹿火(あらかひ)は大陸・半島交易が盛んな越前で、鉄剣を作る近江とも縁のある、応神天皇の子孫:男大迹王(をほどおう)を後継に推す。
豪族の意見が一致するまで即位を渋った男大迹王は、継体天皇となった後も大和に入らず淀川流域を拠点に港や水運の整備をし、513年に百済の使節:五経博士から国造りの方式を教わる。526年に大和盆地に入った継体天皇だったが、新羅が加耶に攻め入ったと聞き6万の援軍を派遣。
軍勢が九州に差し掛かった時、筑紫君磐井が豊・火の国と共に反乱を起こし船舶の進行を妨害。磐井は新羅から賄賂を受け取り、独立国を掲げて磐井の乱を起こしたのだった。継体天皇は物部麁鹿火を総大将に据えて約一年後の528年11月にこれを平定。
継体天皇は五経博士から学んだ、豪族からヤマト政権に土地を献上させ直轄地とする屯倉(みやけ)の制度を九州に導入。やがて全国各地の屯倉に官僚を派遣し情勢収集を行わせ、国家の足がかりを築いた。
【感想】◇
地方出身の豪族から天皇になった人物が、地方豪族:磐井の乱を平定し、統一国家の礎を築いたその時。中国・朝鮮半島との交易を積極的に進めた地方豪族の継体天皇が、その半島情勢の変化をきっかけにした地方豪族の反乱を平定し、中国から学んだ方法を参考に倭国を統治していく辺りが妙味か。
流れとしては分かりやすいが、ヤマト政権については謎の部分も多いので、判明している部分からストーリー仕立てしやすい歴史になっている可能性もある…と心に留め置いておきたい。鎮圧された磐井の側にめぼしい資料がないのだから。
男大迹王のいた越前で交易が盛んだった事、鉄剣の生産地:近江も勢力下にあった事が、後々の政権運営に役立っている。港整備で百済との関係を強化し、統治方式を知る五経博士も招く。一方、磐井の乱の平定には鉄剣が武器として有効だったのだろう。
新興国:新羅が百済・加耶(任那)を倒すため、同じく新国を望む磐井と組んだのも分かりやすい。その戦略を上回るほどの増援軍を継体天皇の20年間でヤマト政権が整えており、技術の高い鉄剣生産も盛んだったという事か。
唐の統治方法を参考に国内統治も確立したヤマト政権だったが、その間に新羅は唐と結んで加耶・百済を滅ぼしていくという所も、歴史の皮肉。
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謎の大王 継体天皇
ヤマト王権の謎をとく
日本の歴史―古代王権の展開
NHKスペシャル 大王陵発掘!巨大はにわと継体天皇の謎
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【あらすじ】外交官だった重光葵(しげみつ まもる)は昭和6(1931)年の満州事変、翌年の上海事変を外交交渉で解決しようとする。停戦交渉をまとめた4月、爆弾テロによって重傷を負いながらも停戦協定に著名。だが国際連盟では昭和8(1933)年、日本に対し満州事変について勧告がなされ、不服とした日本は脱退。
太平洋戦争中、外相となった重光は昭和18(1943)年11月に大東亜会議を開き、アジアの独立と武力によらない協調を決議。終戦時の日本の全権大使として戦艦ミズーリ号において降伏文書に調印。戦後はA級戦犯として禁固7年の判決を受けた。1945年に国際連合が誕生し、昭和26(1952)年にサンフランシスコ講和条約を締結した日本は国連加盟を目標とする。
昭和25(1951)年に仮釈放された重光は政界に復帰し、昭和29(1954)年に鳩山内閣の外相へ。冷戦でソビエトが日本の加盟に拒否権を発動する中、加盟実現に奔走。昭和30(1955)年のバンドン会議でアジアとの協調をはかり、国連に出向いてロビー外交を行うが、4度の加盟申請も拒否された。
そこでソビエトとの関係改善で打開しようと重光は、日ソ国交回復交渉を行うが失敗。鳩山が北方領土問題を棚上げして昭和31(1956)年に日ソ共同宣言と国交回復をまとめた。12月、ポスト鳩山内閣の動きが活発化する中、重光は日本を離れ加盟申請。18日の国連総会において日本の国連加盟が認められた。
重光は議場で「我が国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米およびアジア両文明の融合の産物であって、日本はある意味において『東西のかけ橋』になり得る」と演説。日本では石橋湛山内閣が成立し重光は外相の地位を失い、1ヶ月後の昭和32(1957)年1月に69歳の生涯を終えた。
【感想】◇
戦艦ミズーリ号での降伏文書調印で有名な重光葵の、国連加盟と『東西のかけ橋』演説に懸けた思いを描いた回。自らの政界での地位より日本の加盟を優先した姿と、その直後の死が心を打つが、「東西」の意味する所に疑問も残る。
番組では「東西」を冷戦での東側陣営と西側陣営と解釈していたが、東洋と西洋と解釈するのが通説らしい。確かに「東西」演説の文脈をみても、東洋・西洋と解釈する方がすんなりくる。さらに番組内で紹介された折々の重光の言葉からも、冷戦の東西と解釈するのは厳しい。
重光は常々、欧米(西洋)とアジア(東洋)の観点で発言を続けている。国際連盟脱退時の重光は、アジア・アフリカを植民地とする欧米への憤りを顕わにし、太平洋戦争時の日本についても、アジアを踏み台にするなと怒る。その主張を実現させたのが大東亜会議で、アジアの自主独立を謳った。
大東亜会議は大日本帝国の大義名分を再確認させる意味合いが強く、重光の主張が良い様に取り込まれた感じもする。開戦(というか外交官の視点からするとドイツ・イタリアに続いての「参戦」になる)に反対し和平工作もした重光だったが、結局は無条件降伏の文書に自分が調印する羽目になるとは。しかも、揺れる船上で長いセレモニーと響く祝砲によって、重光本人には失った右脚の痛みが相当あったとか。
東西冷戦(西洋)に対しても重光は、その打開の鍵となるのはアジア(東洋)だと指摘。バンドン会議からアジア・アフリカの支持を取りつけ、国連加盟に期待を寄せるが、安全保障理事会でソビエトに拒否権を連発される。ならばソビエトとの関係改善だと進むが、ここで重光の度量が露呈する。
どうも重光のA級戦犯の判決は、ソビエトの意向が働いたと重光本人は思っていたらしく、日ソ交渉において重光は強硬な姿勢を崩さなかった。ために交渉は失敗し、鳩山が乗り出して日ソ共同宣言、領土問題棚上げでの成立の(裏)条件として日本の国連加盟支持を取りつけた。
この段階で重光の政界での地位は傷付き、もはや国連加盟への日本政府代表としてニューヨークに向かうしかなかった…とも考えられる。番組では、己の政界での動きよりも国連を優先したと取れるように紹介していたが、鳩山が重光に最後に花を持たせてくれたのだろう。
しかし逆に、この動きによって重光は、政界を離れて純粋に外交官として演説の原稿を書けたと言える。外交官として若き日より欧米(西洋)とアジア(東洋)の観点から考えてきた思いを『東西のかけ橋』演説に込めた。私情を捨てた演説だったからこそ、これが名演説として残ったのではないだろうか。
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昭和の動乱〈上〉、〈下〉(重光葵 著)
重光葵―上海事変から国連加盟まで
国際連合―その光と影、―軌跡と展望(明石康 著)
重光・東郷とその時代
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【あらすじ】外国船打払令の報復として、文久3(1863)年6月に下関は攻撃を受け、長州藩の武士は大敗(下関事件)。高杉晋作は身分を問わない奇兵隊を組織し、上海視察で見た西洋式銃隊の訓練を開始。また、各地で朝市隊・角力隊・僧練隊・パトロン隊などの「諸隊」が結成されたが、これらを侮蔑する武士との対立から殺害事件が起き、高杉と奇兵隊は左遷。
元治元(1864)年8月、英・仏・蘭・米の四ヶ国艦隊が下関を攻撃(四国艦隊下関砲撃事件)、長州藩は奇兵隊を下関に戻して激戦となった。一歩も退かずに講和に成功した長州藩は賠償金や領土を取られなかった。しかし10月、第一次長州征討で幕府軍15万が押し寄せると藩は降伏の意を示し、奇兵隊にも解散命令を出す。
だが、高杉もいない奇兵隊の隊士(武廣 九一遜)達は、幕府とも藩とも戦う決意を固める。11月に高杉が戻るや萩へ進軍し藩軍を破り、元治2(1865)年2月には高杉らが藩の中心勢力となった。慶応元(1865)年4月に第ニ次長州征討で再び幕府軍が攻め入るが、諸隊は次々と幕府軍に勝利。
下関の小倉口で幕府軍と対峙した奇兵隊は、慶応2(1866)年6月17日に陸海共同作戦で田野浦上陸戦に勝利し小倉城を残すのみとなった。機動力の通用しない攻城戦に奇兵隊の損害も出るが、かがり火を多くし砦を築く心理作戦によって幕府軍は戦意喪失。8月1日に小倉を焼き払って撤退していった。
奇兵隊は明治元(1868)年の戊辰戦争で東北まで転戦し、新政府軍の勝利に貢献したが、手厚い恩賞はなく、近代軍創設の徴兵制に伴って強制除隊。これに抗議した隊士100人は斬首された。
参考記事:その時歴史が動いた:西郷隆盛と徴兵制
その時歴史が動いた:神戸事件
その時歴史が動いた:薩英戦争
【感想】○
正兵の武士とは全く異なる奇兵隊が、解散命令に反しながら戦いを続け、長州藩を変え、幕府軍にも勝利したその時。高杉晋作の視点ではなく、農民・町人などの庶民のパワーを前面に押し出して描いていた。
外国からの攻撃(下関事件と四国艦隊下関砲撃事件)、幕府からの攻撃(第一次と第ニ次長州征討)の中、それぞれ二回目の戦闘では長州藩の実権が違うとの背景を理解していないと苦しい。奇兵隊が長州藩の方針を180度転換させたのは分かったが、外国とは二回とも派手に戦い、幕府とは二回目が本格戦闘だったのか。どうもごっちゃに憶えていて…。
身分や家柄に縛られた武士では、隊長の命令一下で統率行動は取れず、西洋式軍隊に太刀打ちできない。だから素人である百姓や町人に一から訓練をさせた方が、ましな戦力になるとの高杉晋作の考え。また、庶民の方でも外国への憎しみがあり、次男三男などが自分の居場所として奇兵隊に志願したとの事。
この二つが合わさり奇兵隊の士気は高く、武士が逃げる中、四ヶ国艦隊の上陸部隊と互角に戦った。だが藩はこの奇兵隊の強さを理解せず、幕府軍が迫ると戦わずして高杉を追放し解散命令を出した。隊士の戦意の異常な高さに気付いていないため、高杉さえ除けば解散すると踏んだのだろうか。
だが隊士は高杉にも頼らず戦いの継続を決める。「庶民のものは草一本たりとも奪ってはならない」と隊中諭示を定め、庶民の協力で軍資金や食料を得る方針。番組中では農家が握り飯を率先して提供したとだけ紹介されたが、この後の奇兵隊の進撃ぶりを見ると、庶民や商人から無数の協力があったと思われる。それにしては奇兵隊の数が当初300人、小倉でも1000人とは少ない気もするが。
そんな戦力数のためか、高杉は徹底して一撃離脱戦法をとり、戦力を温存させる。でも小倉城攻めでは正面攻撃せざるを得ず、1割100人の損害を出す。近代兵器を備えていても城攻めに寡兵ではどうする事も出来なかった。高杉は一気に弱気になるが、ここでも隊士の士気は崩れず、再度の攻撃を志願している。
高杉が奇兵隊を率いて引っ張っていったとの今までの概念は、今回の番組によって、隊士一人一人の意識の強さに支えられていた面が相当あると分かったのは良かった。ただ、包囲している強みを生かして、戦力欺瞞による心理戦で最終的に勝利したのは高杉の知恵の為せる技か。
だが、奇兵隊が西洋式軍隊の先駆けであったのに、その士気や意識の強さが全国に西洋式軍隊を導入する徴兵制では邪魔になったのは皮肉だ。あくまでも上意下達の統率行動が求められる徴兵と、奇兵隊では性質が異なっていた。武士でも軍隊でもない奇兵隊は、時代の狭間に一時だけ生まれた文字どおりの奇兵だったのか。
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高杉晋作と奇兵隊(今回の解説:青山忠正 著)
高杉晋作と奇兵隊(新書)
幕末維新の民衆世界
開国と倒幕
DVD「その時歴史が動いた」奇兵隊決起せよ!~高杉晋作挙兵の時~
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【あらすじ】毛利元就は安芸の一領主だったが、石見銀山を得るため尼子氏に8度の攻撃を仕掛け、永禄5(1562)年に奪取。石見銀山は世界の銀産出の3分の1を誇り、地図でヨーロッパにも紹介されるほど知られていた。毛利は南蛮貿易によって銀と火薬の原料:硝石を交換。鉄砲の量産によって永禄9(1566)年に中国地方を制圧。
元就が死去し孫:輝元の代となった頃、織田信長が中国地方に攻め入るが本能寺の変で倒れる。代わって羽柴秀吉が石見銀山の引渡しを要求。しかし、石見銀山は朝廷の御料所であり、毛利がその代官職にあるとして、輝元は石見周辺の新銀山を秀吉に差し出して臣下となった。
文禄元(1592)の文禄の役で毛利は3万の兵と銀の供出が求められ、加工した丁銀5千枚を献上。慶長3(1598)に秀吉が死去すると、朝鮮に兵を出さなかった徳川家康が天下取りに動き出す。石見銀山で余力のあった輝元は石田三成から西軍の総大将に祭り上げられ、慶長5(1600)に大量の銀を軍資金として、全国の大名に味方に付くよう呼びかけた。
だが、9月15日の関ヶ原の戦いで西軍は敗れ、大坂城に家康が迫る。25日、輝元は石見銀山を家康に譲渡。毛利氏は周防と長門の大名として存続し、幕末の長州藩となって徳川幕府を倒した。
【感想】△
毛利氏と、信長・秀吉・家康の戦いを石見銀山を巡る攻防という視点から描いた話。今回のタイトル「銀を制する者は天下を制す」という事で、石見銀山の力で勢力拡大した毛利元就から、何とか奪おうとした信長・秀吉・家康。石見銀山を差し出す事で生き残った毛利輝元という流れ。
結局、銀を制しても天下を制していないじゃないか、という気もしないでもない。銀によって得られる交易品に力があり、それを軍事力に利用した毛利元就の成功を知って、各武将がこぞって石見銀山を手に入れようと毛利氏と戦った(面がある)。
しかし、石見銀山を手に入れた元就は、急速に中国地方を制圧したために、内政・経済に歪みを出した所で死去。輝元はその統治問題を抱えたまま信長と戦い、秀吉と共存、西軍総大将になり銀を軍資金として家康と戦ったが敗れている。
信長は銀を持つ毛利でなく明智光秀によって倒されたし、秀吉は銀を献上させて朝鮮に出向くが敗色の中で死去。家康も石見銀山を手に入れる前の関ヶ原でほぼ天下を手中に入れた。逆に、石見銀山を手に入れても15年後の大坂夏の陣まで天下を取れていない。
銀というお宝に惑わされ、力の幻を信じた武将達の哀れさをも感じてしまう。もしくは、石見銀山はさほど重要ではなく、それ以外の要因によって天下の形勢は動いたのだとも。
輝元が家康に石見銀山を差し出した時が「その時」だったが、この肝心の部分で疑問が残る。家康が大坂城の輝元に石見銀山を要求した証拠はなく学者の推測であった所、また、秀吉に対して要求を拒否した「朝廷の御料所」という理屈が、家康との攻防の中でどうなったのかが番組では説明されていない。
家康からの要求もなく譲渡したから、その温情として毛利家が存続した、と全く逆にも推測できてしまう。ともかく毛利が生き残って幕末には長州藩として倒幕し、石見銀山を再度手にするわけだが、その頃には当に石見の銀は枯渇している。
家康が金と銀で統一通貨を作って全国規模の経済圏を形成させたと説明があったが、幕末には、石見以外で採れた銀の価値が世界基準でどれほどか分からない幕府は、欧米に騙されてひどい比率で銀兌換され、徳川財宝なんかスッカラカンになっている。銀を制していても使う人次第か。
参考記事:その時歴史が動いた:村上水軍、黒田如水
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金・銀・銅の日本史
世界遺産石見銀山を歩く
石見銀山と日本 の世界遺産候補地(世界遺産アカデミー公式ビジュアルブック)
毛利戦記―大内、尼子を屠った元就の権謀
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【あらすじ】松平容保(かたもり)は文久2(1862)年に京都守護職に就任し、幕府に反発する長州藩を武力で封じる。新撰組なども配下に置き、元治元(1864)年の禁門の変で薩摩藩と共に長州藩を破る。連日徹夜で御所を警護した容保は病に倒れるが、孝明天皇から絶大な信頼を得た。
しかし孝明天皇が慶応2(1866)年に崩御すると薩摩藩は長州藩と同盟を結び、慶応3年には新政府を樹立して徳川家に官位と領地返上を求めた。徳川慶喜は対決姿勢を強め、慶応4(1868)年の鳥羽伏見の戦いに至るが、錦の御旗を前に朝敵となった事に動転。徹底抗戦の容保の意見に耳を貸さず、大坂城から江戸へ逃げ帰ってしまう。
一ヶ月後、会津へ戻った容保は恭順謹慎する慶喜に倣い、藩主の座を息子に譲って謹慎。朝廷に慶喜の助命嘆願書を書き続けた。4月に江戸城無血開城がなされると、新政府は容保を「朝敵のみならず徳川家にも不忠の逆賊」として討伐戦を開始。会津に同情する東北各藩は奥羽越列藩同盟を結成し新政府軍と戦闘状態に入った。
8月21日、母成峠を突破した新政府軍は一気に会津城下に迫り、迎撃した容保も城へ退却。藩士の家族は足手まといになるとして自刃者多数。29日、会津城から出撃した佐川官兵衛ら1000名の反撃が失敗、早くも9月には食料不足。8日には元号が「明治」となり、14日からの新政府軍の総攻撃で、アームストロング砲により城に砲弾が一日に2500発撃ち込まれた。
東北各藩も降伏し、会津に続々と新政府軍が集まる中、明治元(1868)9月21日に容保は降伏の意思を示し、翌22日に会津藩は降伏。2500人が犠牲となり逆賊の汚名も晴らせぬ敗北だった。容保は晩年を東京で過ごし、朝廷への反逆の罪を許され、明治26(1893)年に59歳で死去。
【感想】◇
戊辰戦争の中で最大の激戦:会津戦争の主役であった松平容保が降伏を決断した時を描く。徳川家と朝廷への忠誠で働いた容保が、朝敵となって逆賊と呼ばれ、徹底抗戦も虚しく多数の民の犠牲を出して終わった会津戦争。
会津藩士の「義に死すとも不義に生きず」の精神で、正義か不正義かは後世の判断を仰ぎたいとして始めた会津戦争だったが、結果として武士よりもその家族や町人の方に多数の死者が出た。
勝てば官軍で押した薩長が、明治以降の歴史を作って会津を逆賊としてきたわけだが、会津側から見た今回は、義を重んじ義を貫いた容保ら会津藩士の良さが前面に出てくる。そしてその戦いの犠牲になる民…というのが構図か。
容保の悲劇は、忠誠と義のズレによるものという気がしてくる。徳川家への忠誠で財政難の懸念を他所に京都守護職となった容保。当時は公武合体政策であるから朝廷への忠誠も誓い、孝明天皇からも信頼される。だが天皇が代わり公武合体も失敗した潮目を見逃した。忠誠の対象であった朝廷そのものが方針転換したのだ。
徳川慶喜が薩長と当初は対決姿勢であり、徳川への忠誠から薩長と戦闘に入る。しかし慶喜もまた、江戸へ逃げ帰って恭順謹慎へと方針転換。徹底抗戦を主張していた容保は取り残され、逆賊として討伐の対象となってしまう。
忠誠を尽くす義によって働いていた容保だったが、その対象である朝廷・幕府ともに変わってしまった。朝廷は薩長に欺かれていると考え、徳川家を守る家訓のある会津藩としては、その変化に対応できない。求められていない忠誠が容保に残った。
一方の薩長は、容保の斬首・城と領地の没収という事実上の無条件降伏の方針で臨み、会津に新たな義を生じさせた。上記の降伏案は会津に限らずどこの藩でも飲めない条件である。こんな案を突き付ける薩長よりも、我が藩に義があると会津藩士が徹底抗戦に傾くのは当然だ。
一時は奥羽越列藩同盟で新政府軍と互角の戦いを繰り広げるが、会津の義に同情して味方となった各藩も、実際に戦闘をするとその犠牲を無視できない。同盟は瓦解し、会津城は包囲される。徳川家・朝廷といった上への忠誠で、会津から離れた京都で戦った時とは違う…と容保も気付く。
城下は火に包まれ、砲撃で老人・子供・女性から犠牲者が出ていく惨状を目の当たりにした。さらに藩士も食料を得るために敵陣に乗り込むなど、下の者の苦境を知り嗚咽した容保。上への忠義では済まないのが自分の城下・城の戦闘だった。
松平アナが、容保の決断は遅かったのでは?と問うていたが、この価値観・人生観の転換に時間が掛かったのだと思う。容保はこうして明治の世で戦没者追悼をするが、生き残った藩士らはその時歴史が動いた:西南戦争で「戊辰の仇!」と叫び薩摩陣地に突撃する抜刀隊になった。薩長と会津の禍根は今でも強く残っている。
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会津落城―戊辰戦争最大の悲劇
会津戦争全史
敗者から見た明治維新―松平容保と新撰組
図説・幕末戊辰西南戦争―決定版
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【あらすじ】天正10(1582)年6月2日の本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれ、羽柴秀吉は毛利と和睦して11日には大坂へ戻る。一方、上杉と戦う柴田勝家軍では、すぐ戻るよう進言する佐久間盛政と、追撃を恐れる前田利家の意見が割れ、13日の山崎の戦いに間に合わず。
6月27日の清州会議で勝家は、信長の後継者に三男:信孝を推すが、秀吉は山崎で共に戦った丹羽長秀・池田恒興を味方に付け、孫の三法師を後継者に決定。加領も秀吉が+70万石に対し勝家は+6万石に留まった。勝家は信長の妹:お市の方と結婚し織田家を守ろうとしたが、秀吉は独断で信長の葬儀を行い勝家は出席できなかった。
勝家の北ノ庄城が雪に覆われている間に、秀吉は長浜・岐阜城を攻め、信孝から三法師を奪う。秀吉との戦いを決意した勝家は、信孝・滝川一益と組み、足利義昭を仲介者として伊達正宗・長宗我部元親・毛利輝元と連携、反秀吉包囲網を敷いた。そして雪解けを待たず天正11(1583)年2月28日に越前を出発、3月12日に3万の軍勢を賤ヶ岳(しずがたけ)に布陣。
17日には秀吉が5万で賤ヶ岳に着陣し堅固な柵・堀・土塁を築いた。4月に入ってもこれを突破できない勝家だったが、信孝・滝川一益が挙兵し秀吉は20日に2万を率いて大垣へ。この機に佐久間盛政4千が奇襲を敢行し、賤ヶ岳の裏手に回る事に成功。だが勝家は秀吉の早さを恐れて動かず、予想どおり秀吉は10時間で戻り、盛政は孤立。
4月21日深夜、盛政の支援部隊であった前田利家が、突如として戦線離脱したのを契機に勝家軍では離反が相次ぎ、賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家は、24日に北ノ庄城でお市の方と自害。
【感想】△
信長の死後、露骨に天下取りに動く羽柴秀吉を快く思わず、何としても織田家を盛り立てて守ろうとした柴田勝家。後継者争いは賤ヶ岳で両軍が激突し、勝った秀吉が天下統一への道を歩み出した賤ヶ岳の戦い。
新資料の公開で賤ヶ岳の戦いを新たな切り口で描こうとした今回だったが、新資料は今まで云われて来た説を裏付けただけで、何ら新しい面が感じられなかった。勝家は独断の秀吉に対し合議制を理想とし、水面下の政治工作で対立。そして賤ヶ岳の戦いで信孝・滝川一益と連携するが、秀吉の常識を超えた速さの前に敗北したと。
常識的にはNo.1の家臣だった勝家が後継者になるはずだったが、戦果を上げた秀吉は強引に主導権を握ろうとする。そして勝家本人には自分が後継者になるよりも、織田家を守る意志が強かった。それは柴田家と織田家が斯波高経を祖先とする同族であったからとの事。
織田家の誰が後継者になるかを話し合うつもりで勝家は清州会議に臨んだが、秀吉は後継者選びを利用して、実質的には秀吉が後継者か否かに論点をすり替えた。合議制を理想とする勝家だったが、清州会議では事前の根回しで多数を得た秀吉に言い負かされた。
戦場でも合議にこだわる勝家は、盛政と利家の意見対立をまとめられずに山崎の戦いに間に合わず。賤ヶ岳では前日の軍議で盛政の奇襲を容認しておきながら利家の真意を読めず、要の部分に秀吉の親友の利家を配置して敗北を招いた。
自ら理想とする合議制を平時でも戦場でも使いこなせなかった勝家。合議の対極にある独断専攻をも、平時と戦場で抑えられなかった。
勝手に信長の葬儀を行うなど、後継者を自認して動く秀吉の素早さに苦戦した勝家。水面下で包囲網を形成して戦場で一気に叩く作戦で賤ヶ岳に乗り込んだ。皆でまとまってとの姿勢は迅速な秀吉とは対極にある。その織田信孝・滝川一益との連携で上手くいくかに思えた。
だが、勝家軍の内部にも独断専攻型の佐久間盛政がいた。この勇猛果敢の塊のような盛政を勝家は抑えられなかった。信孝・一益と共に秀吉を叩くのが勝家の最終目標だったので、急遽決まった盛政の奇襲には曖昧な指示しか出せなかった。
勝家の一貫性のなさで利家の、親友の秀吉とは戦いたくない厭戦気分を増幅させ不安にさせた。清州会議の合議に納得しなかったから秀吉と対決した勝家だったのに、この前日の軍議に納得していない利家の気持ちを推し量る事が出来なかった。
同じ独断専攻の盛政と秀吉の激突は、4千しかいない盛政が負けるのは目に見えていた。勝家が動いても3万と5万で分が悪い。勝家が織田信孝・滝川一益との連携に拘った理由もここにあったはずだが、その戦略が崩れて勝ち馬に乗った利家と、常識を超えた秀吉の速さもあって敢えなく敗北した。
平時と戦場での合議制と、敵と味方の独断専攻で死に至った勝家。別に勝家が無能だったわけではない。当時の武士の常識では勝家のやり方で平時も治まり、戦場でも収まったはずなのに、性格も出世も戦術も常識外れな秀吉の力がずば抜けていただけ。
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戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い
秀吉の天下統一戦争
賤ヶ岳の鬼神 佐久間盛政
柴田勝家―ひたむきに戦国乱世を駈け抜けた男
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【あらすじ】東西冷戦で昭和27(1952)年のサンフランシスコ講和条約に中国は参加せず、日本は翌年に台湾の蒋介石の国民政府と日華平和条約を締結。台湾を唯一の中国政府と認め、毛沢東の共産党政府の中華人民共和国とは国交を結ばなかった。
しかしその後、中国はソ連との対立を深め、西側との貿易を盛んにしたい中国と、ベトナム戦争を打開したいアメリカの思惑が一致。昭和46(1971)年にニクソン大統領が中国訪問を発表、中国の国連入りも承認されて台湾は国連を脱退した。自民党総裁選では福田赳夫を中心とする台湾派を田中角栄が破り、田中総理は中国との交渉に乗り出す。
昭和47(1972)年8月、訪中した公明党の竹入義勝(後に創価学会と敵対)は、周恩来が「日米安保の承認、戦争賠償の放棄」を飲む意向だと田中に伝える。9月25日、田中は訪中し人民大会堂で、戦争によって「中国に多大なご迷惑をかけた」と謝罪。この発言に中国側の態度は硬化し、日華平和条約では講和も賠償も終わっていないとの姿勢を示す。
周「台湾が全中国を代表して戦争を終わらせたとは、とんでもない話だ」
26日、交渉は暗礁に乗り上げ、日本側は深夜まで協議した結果、外務大臣:大平正芳が「日中間のこれまでの関係は“不自然な状態”と表現できないか」と切り出した。27日深夜に田中と大平は毛沢東と予期せぬ会談を用意され、ここで大平提案の受け入れを毛が表明。「中国と日本との間の極めて不正常な状態は終了する」との表現でまとまった。
28日、日本は二つの中国の立場をとらず、台湾とは民間交流のみとするとの提案に中国は全面的に賛意を示し、昭和47年9月29日に日中国交正常化が実現した。
【感想】○
その時歴史が動いた:廣田弘毅で国民政府と決別し、その国民政府が台湾に逃れ、共産党政府が継承でなく新しい中国政府となった。そしてその時歴史が動いた:石橋湛山で中国と民間貿易を開始し、田中角栄が台湾に対する信義より中国との実利を重視して、国際情勢の変化を背景に中国との国交正常化を果たした。とはいえ今回の番組が描き出したのは、「ご迷惑」との言葉で交渉が難航し、「不自然」「不正常」との言葉で妥協点を見出した交渉の妙味だった。
言葉の解釈の違いで失敗寸前に陥ったかと思えば、言葉は違う解釈に取れるとの性質を生かして交渉を成功させたという面白さ。文言の解釈を詰めるのが外交交渉の通例なのに、どちらにも都合よく解釈できる文言にして国交を結ぶ。問題の先送りと云われようとも、双方ともに実利を得たい事情を優先させた解決法。
田中角栄の「中国に多大なご迷惑をかけた」は、中国にとっては軽い謝罪と捉えられた。田中自身にとっては全てを含めた重い謝罪の意味で、誠意ある謝罪のつもりだったが、どんどん中国の態度が硬化し、放棄の意向だった戦争賠償も要求されかねない状況に。意図せざる所で交渉が躓いて田中も戸惑っただろう。
もちろん田中の内心の吐露や日本の外交官らの内部協議は、中国側が用意した部屋で行われたのだから、中国側に全部盗聴されており、そこから得た情報によって、中国側が「ご迷惑」発言の真意を知ったのだろう。だからこそ交渉は決裂しなかった。
大平が「不自然な状態」との表現を夜を徹して捻り出す模様も中国側は把握しており、何とか講和と国交を結びたいという日本側の意志を確認してから、中国のトップ:毛沢東は田中・大平と面会する。
実は中国側も、最大の貿易国:日本と是が非でも国交を結んでさらに貿易を拡大し、東側から孤立して弱まる国力・地位を持ち直したいとの願望があった。さらに日本は台湾と講和し国交もあり、例えこの交渉が決裂しても全てがパーになる訳ではない有利さがある。中国はこれらを悟られたり利用される事を恐れていたのではないだろうか。
「中国と日本との間の極めて不正常な状態は終了する」の文言から、日本は日華平和条約で戦争が終わったと解釈でき、中国は今回の交渉で戦争が終わったと解釈できる。どちらにも解釈できる表現で丸く収めた知恵ととるか、曖昧表現でしかまとめられない対立の根深さととるか。
この解決法は、自国の解釈しか教えないならば両国の歴史認識にも影響する。他にも、領土・国民賠償などの問題は意図的に避けられた。それでも実利をと当時の両国が望んだ結果が日中国交正常化ならば、それによって現在生じている問題もまた、国際情勢を睨みつつ、互いに知恵を出し合って解決していくしかない。問題先送りを永遠に続けるのが日中外交、それこそ外交の本質で戦争回避の手段だとするならば。
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記録と考証 日中国交正常化
激辛書評で知る 中国の政治・経済の虚実
田中角栄回想録
日華断交と日中国交正常化
NHKスペシャル 周恩来の決断―日中国交正常化はこうして実現した
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【あらすじ】深沢晟雄(ふかさわまさお)は実業家だったが、終戦で故郷の岩手県西和賀町沢内(旧沢内村)へ引き揚げ。そこは戦前と同じで貧しく、病気になってもただ死んでいくしかない悲惨な村だった。沢内では昭和31(1956)年に158人が生まれたが、11人が1歳未満で死ぬ乳児死亡率69.6。東京の25.7と比べ全国最悪とも言える高さだった。
昭和32(1957)年に村長となった深沢は、雪で病院にも行けない状況を改善する除雪ブルドーザーを得ようと奔走。深沢の熱意を聞いた建設会社から1台貸与される。また、定期的な乳児検診を始め、村に虚弱児・くる病が蔓延している事を掴む。しかし村で唯一の病院:沢内病院には耳が遠かったり暴力的だったり麻薬中毒な医師がいた。深沢は東北大に9ヶ月も通い詰め、医師の派遣を取り付けた。
保健婦が正しい育児法を教えていたが、沢内の子供の教育の権限は姑にあった。そこで部下のアイデア「おばあちゃん努力賞」を設け、虚弱児を立派に育てた姑を表彰した。これらにより昭和34(1959)年には乳児死亡率26.3へ改善。さらに保健婦を病院に常駐させ、医療費無料化も決断した深沢。
だが、国民健康保険法には国民負担2分の1が明記されており、県や議会から村の全額負担は法律違反だと追及された。深沢は健康で文化的な生活を定めた憲法25条が優先するとして、昭和36(1961)年に無料化を導入。昭和38(1963)年1月1日に昭和37年の乳児死亡率ゼロを全国初で達成した。
【感想】◇
1歳までの1000人中で換算する乳児死亡率で、全国最悪の岩手県平均よりさらに高い死亡率だった沢内村。そこへ保健・医療・福祉の一体化を進めた村長の深沢晟雄によって、全国初の乳児死亡率ゼロを達成したその時。地道な現実策、村内の意識改革、法律より優先すべき理念があるとの覚悟で様々な壁を乗り越え、赤ちゃんを一人も死なせない所まで到達した話。
全く知られていない人物で、歴史的にも乳児死亡率というマイナーな分野を取り上げたが、番組の構成はしっかり組み立てられていて、深沢の努力と死亡率の数値が結果として交互に示されていく展開。流れが良くて飽きさせずに見せてくれる。
ただ、沢内村の乳児死亡率は、深沢のスタート時点では東京などとの比較データを載せていたのに、途中から比較がなくなり沢内村だけのデータになったのは不親切。さらに、沢内村が乳児死亡率ゼロを達成して「沢内もうで」と呼ばれる全国からの視察が相次ぎ、乳児死亡率減少の流れが出来たかのように語られていた。
しかし、昭和40年までの乳児死亡率は全国的に劇的な減少傾向にあった。昭和5年で約120、昭和15年が90、昭和25年が約60、昭和35年が約30である。つまり10年で30ずつ減るペース。深沢の尽力はその中の1ケースとも言える。
それでも、深沢の沢内村が昭和31年に69.6(全国平均40.7)だったのを昭和38年にはゼロ(全国平均約20)にしたのは、全国のペースを上回る改善であり、この差異で功績を評価しなければいけない。
強く認識すべきだと最近思うのは、戦前の日本は本当に貧しくて、人がバタバタと死んでいた事。だからとにかくたくさん生まないと農村はやっていけず、その時歴史が動いた:受胎期発見で見たように、妊娠しない女に価値は置かれず、逆に多産で女性が弱まって死ぬなど、死が当たり前のようにあった。
沢内村の因習や価値観などを見ても、赤子は泣き叫んでも放っておけば育つから平気というのは、そんな環境でも育つ強い遺伝子を持ってないと、将来の労働力にならないという考えだったのかもしれない。現にそうして育った男子が戦時下では兵隊になり、東北の兵団は最も強かったと伝えられているし。
子育ての権限が姑にあったというのも、番組内でちらっと説明があったが、嫁は妊娠末期まで畑仕事をして(させられて)いたからで、体力の弱まった姑が家で子供の面倒を見るのが合理的だったから。昔が舞台のドラマなどで嫁が畑で産気づいて旦那が大慌てするシーンがあるが、あれはコメディ調を採っていても実はあまり笑えない(笑ってはいけない)場面だったりする。
村では「かまど返し」と言って、病院通いは財産を失うとの考えが根強かったらしい。これも沢内病院にいた品行方正でない問題医師の多さから得た教訓だったのかも。田舎の村に行く医師など出世コースから外れた者と決まっていて、だから東北大も派遣を渋った。
これらを深沢が一つ一つ解決していく。医療の改善にまずは除雪ブルドーザーという、一見奇策に見えて最も地に足のついた改善策。表彰という金の掛からない手段でありながら、お上のありがたみを最大限に生かした作戦で意識改革。かと思えば法律より理念を優先するとの高い志を掲げたり。もちろんそこに、沢内村だけでない全国的な乳児死亡率改善の動きも合わさる。
保健婦(行政)を病院に常駐、医療費無料化などは、なりふり構わぬ行政手段にも見えるが、生まれた命を守りぬくのが政治の一番の中心と言われると、その当然さに誰も反対できない。
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「あきらめ」を「希望」に変えた男―沢内村長・深沢晟雄の生涯
自分たちで生命を守った村
野の花―岩手の母子保健に生きた人々
もう一度抱きしめたい―赤ちゃんの死を乗り越えるために
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【あらすじ】廣田弘毅は外交官として「日本は断じて中国に手をつけてはならない」との信念を持っていた。列強が進出している中国に日本が進出すれば対立は避けられないと考えていたからである。しかし昭和6(1931)年の満州事変で政府の外交解決は失敗し満州国が建国されてしまう。廣田は昭和8(1933)年9月に外務大臣となり「私の在任中は戦争は断じてない」と国会答弁、蒋介石との協和外交路線を図る。
軍部が「統帥権の独立」と2.26事件などのテロによって政治介入を強める中、軍部を抑える役割を期待された廣田は昭和11(1936)年3月に総理大臣に就任。だが早くも5月には軍備増強の帝国国防方針改定案を飲み、南方進出を明記した「国策の基準」も策定、軍部大臣現役武官制、日独防共協定も認め、廣田は何もできぬまま昭和12(1937)年1月に内閣総辞職。
7月7日の盧溝橋事件当時、近衛内閣で請われて外相になっていた廣田は、不拡大方針案を提出し、動員案の軍部と対立。しかし閣議では動員案の微修正に成功しただけで戦闘は拡大した。天皇に外交交渉の意があると知った廣田は和平案を練るが、12月13日に南京が陥落し軍部は中国により厳しい案を提示、マスコミ・国民も戦争継続を望み、廣田の和平案は会議で一蹴された。
昭和13(1937)年1月にはそもそも中国との交渉が必要ないとの声が高まり、国民政府よりも親日政権と国交を結ぶ案が採用され、第一次近衛声明において「国民政府を対手(あいて)とせず」と発表。以後、中国と全面戦争状態となり太平洋戦争へと進んでいく。戦後、東京裁判において廣田は文官として唯一、絞首刑となった。
【感想】○
中国進出に反対の信念を持ち、外相・首相を歴任した廣田弘毅だったが、軍部の政治介入を防げず、外交交渉にも失敗、戦闘拡大時の当事者にもなり、戦争を防がなかった協力者として戦後はA級戦犯として絞首刑になってしまう皮肉な運命。
見えない所での努力が全て失敗し、見える範囲での行動によって戦争犯罪人になってしまった人物の、徒労感や諦め・諦念が表現できていた。裁判で一言も抗弁せず、判決を受け入れた理由として筋が通っている。
執筆者の経験からしても、既成事実というのは組織間対立において本当に恐ろしく、力のあるもので、既成事実になる前の友好的な状態に戻すのは容易でない。その力を知る者が自分達の組織にいて、隙あらば既成事実を積み重ねようとする場合は、どうにも止められなく行く所まで行ってしまう。困った事に世の中にそんな人は稀でない数で存在する。
このような困った人は、もともと極端な闘争本能や攻撃精神が組み込まれているのか、生育環境によって培われたのか私には分からない。また、彼らが既成事実の認識を持って戦術として行使しているのか、無自覚なのかも分からない。とにかく常に敵を作って対立を激化させ、中立の人も巻き込み、事を大きくしていくのだ。
その敵というのも、自分が勝てそうな相手にのみ仕掛けて行く。最初は小さな意見の食い違いから口論になればしめたもので、相手を挑発し威嚇し、時には恫喝もして対立構図を作り出す。文書や証拠となりそうな物は決して見逃さず、それをネタに上の人物の言説を我田引水したり拡大解釈した法律を持ち出して相手の非をどこまでも責めていく。
こうした困った人の暴走を内部で止めようとすると、「甘い」「もう遅い」などと言われ、しまいにはこちらも敵(もしくは敵のスパイ)だと認識され、会合や会議で徹底的に罵倒される。それならばと他のメンバーと協力して止めようと思っても、大多数の人間は傍観者であって関りを避けたがり、こちらが罵倒された様子を見ているだけに、それを自分が受けるのではと恐れて味方になってくれない。
そうなると傍観者は一斉に困った人へと引っ張られ、なびいて萎縮・恭順してしまう。内部の大勢が決するともう相手組織との交渉もなにもない。困った人はさらに強硬路線をとって既成事実を積み重ね、こちらはその都度なんとか穏健路線に修正しようとしても果たせず、成功したとしても小さな修正に終わったり、さらなる既成事実によって修正が無力化される。
最悪の場合は会議での発言そのものが議事録に書かれない事件も起こる。書記も困った人の言い成りで、その議事録問題を取り上げても傍観者の誰も発言の証明に協力してくれない。いつのまにかこちらの方が妄言を吐く困った人扱いをされてしまうのだ。
結局、何をしても無駄との絶望感から、この組織間対立を全面的に黙認するしかなくなる。代わりにやる人が見つからずに辞める事も許されず、当事者の一員となるのは非常に不本意だが、この困った人の戦いがどこまで行ってどのような顛末になるのか見届けてやろうとの捻くれた根性だけが支えとなる。
…私個人のこんな経験をこの時代の歴史に当てはめるのはおこがましいが、今回の廣田弘毅もこんな感じだったのではないだろうかと推測してしまう。ちなみに私の方は任期が来て抜け出せたが組織間対立はまだ続いている模様。廣田の運命を見ると私もいつか戦犯扱いになるのか?真っ平御免だ(笑)刑事にも民事裁判にもならないだろうから良いんだけど。判決を黙って受け入れた廣田はとても偉い。
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統帥権と帝国陸海軍の時代
落日燃ゆ(城山三郎 著)
黙してゆかむ―広田弘毅の生涯
秋霜の人 広田弘毅
広田弘毅
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【あらすじ】アメリカは1898年、アジア侵入の戦略上の重要拠点としてフィリピンに浸出。宗主国として土地所有権を登録させるが、米に協力的な地主だけが登録し、民衆は小作農として土地を奪われた。貧困層となった民衆はサクダル党を中心に蜂起するが鎮圧された。
そこへ大東亜共栄圏を掲げた日本が太平洋戦争によってフィリピンを占領。日本は日本文化の浸透を図るが、60万の軍隊を駐留させ、その食料を現地調達したためにフィリピンは食糧難に陥る。乱暴な日本兵の態度もあって抗日ゲリラが組織され治安悪化。懐柔策として1943年10月14日にフィリピン共和国として独立させたが改善しなかった。
そこで4000〜5000人のマカピリ(フィリピン愛国同志会)を組織した日本軍。1944年10月にレイテ島に上陸した米軍や1945年2月のマニラ攻防戦において、マカピリを抗日ゲリラと戦わせ、マカピリからの密告に基づいて住民虐殺を行った。敗戦後、マカピリに所属していたフィリピン人はリンチに遭い、その死傷者数も判明していない。
1946年7月4日に独立したフィリピン。しかし軍事・政治経済でアメリカ依存が続き、真の独立を果たしたのは、ベトナム反戦からマルコス独裁政権を倒し、1991年に米軍基地撤退を決議した時といわれる。
【感想】○
スペイン、アメリカ、日本、アメリカと占領者が入れ替わったフィリピン。ラグナ湖のカブヤオ村では住民がマカピリと抗日ゲリラに分かれて戦い、隣村では虐殺も起き、戦後は集団リンチも発生した。その村人の姿からフィリピン独立への血にまみれた苦難の道を描く回。
強国に占領された国・地域では、往々にして今回のような占領者への協力と抵抗が起こる。ナチスドイツに占領されたフランスは抵抗(レジスタンス)運動のパルチザンが有名だが、協力者も多数おり、パリ解放後に男は住民によって銃殺、女は丸刈りにされたり服を剥ぎ取られたりした。フィリピンだけが特殊事例ではない。
そして協力者と抵抗者が同じ国・同じ民族同士で戦う事もある。小さい所ではマフィアなんかがよく使う手だし、架空世界ではSFでも、宇宙人に占領された地球で、宇宙人に協力する事で生き残った人類と抵抗者が戦う小説もある。
…と、相対的に見て来た所で、今回の証言や映像は絶対的に悲惨なものがあった。アメリカは占領・統治に協力的だった地主と結託し、民衆を小作農として支配した。これに抵抗したろくな武器も持たないサクダル党を武力鎮圧。戦後も米軍に協力的だった独裁政権を支援し続けた。
日本占領下では自由と民主主義を旗印に抗日ゲリラに武器や食料を与えて戦わせ、戦後はその功績として年金を支給している。
一方の日本は、アジア解放・大東亜共栄圏を掲げて占領。一律に日本語教育をさせて文化から変えようとした。さらに名目だけ独立させ、その独立が米軍上陸で危ういとしてマカピリを組織し抗日ゲリラと戦わせた。負けたために戦後は日本に協力したマカピリに何の補償もしていない。
マカピリも抗日ゲリラも、根底では自国への愛国心と独立心がありながら、激しい対立と何十年も消えない禍根を残している。彼らの運命は入れ替わり立ち替わりだった占領者に大きく左右されている。占領者はフィリピン人を利用するだけ利用した。
日本のフィリピン占領のつまづきは、食料の現地調達から来た食糧難だったようだが、これは植民地政策よりも、当時の日本が貧しい国だった事の方が大きい。大東亜共栄圏は大義名分にすぎないが、南方の資源(食料も含めて)を求めて開戦に踏み切ったほどだったのだから。もちろん、軍事に傾倒して貧しかった面もある。
戦後裁かれた「バターン死の行進」も、十分な食料を与えずに捕虜を歩かせたのが非人道的とされているが、歩かせた日本兵にも十分な食料はなく、輸送トラックを使えるほどの燃料も無かったのが実状。これが非人道的か否かといえば当然、非人道的ではある。
金持ちの地主を優遇した戦前のアメリカ、貧しい上に戦局悪化で弱い者弱い者へと矛先を向けてしまった日本、米軍に協力的な政権を強力に支援した戦後のアメリカ。どれもフィリピンの一般民衆のための占領・統治を行っていない。
でも(というか、だから)フィリピンはピープルパワーやクーデターで国を変えて来た。米軍基地撤廃も実現させている。これを見習って日本も撤廃できるという見方がある一方、より一層、沖縄の重要性が高まって撤廃が困難になったとの見方もある。で、今回も明確な結論は出せず…。
前回記事:沖縄返還
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フィリピン独立問題史(今回の解説:中野聡 著)
近現代日本・フィリピン関係史
日本占領下のフィリピン
ワラン・ヒヤ―日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録
東南アジア史のなかの日本占領
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【あらすじ】昭和20(1945)年の沖縄戦で米軍に占領された沖縄。住民は収容所に入れられ、米軍は本土攻略用の基地建設を進めた。田井良収容所の交渉役:瀬長亀次郎は配給増を申し出るが却下される。戦後も日本本土が連合国統治だったのに対し、沖縄は昭和21年に沖縄民政府が発足するも実質は米軍統治が続いた。
米兵の婦女暴行が4年間で194件に上り、瀬長は人権向上を求めて活動開始。日本本土と共に独立する夢を語るが、1951年のサンフランシスコ講和会議で沖縄はアメリカの施政下に置かれた(参考:その時歴史が動いた:サンフランシスコ講和条約)。アメリカは沖縄を反共の要と位置付け、基地拡張に乗り出し、小額借地料での土地の強制収用を行った。さらに土地の無期限使用に繋がる借地料一括払いの方針を打ち出す。
立法院議員(県議)となった瀬長は一括払い反対・適正補償・損害賠償・新規収用反対の四原則を掲げるが、逮捕され1年半の投獄生活を送る。昭和30(1955)年に6歳の由美子ちゃんが米兵に誘拐・暴行・惨殺された事件を契機に住民の反対運動が起こり、出所した瀬長も集会に参加、「島ぐるみ闘争」へと発展する。
那覇市長となった瀬長は祖国復帰を訴えるが、アメリカから睨まれ行政には横槍が入った。瀬長追放を画策するアメリカは不信任案の改定で瀬長を失職させたが、後任にも瀬長支持の候補が市長に当選。昭和40(1965)年のベトナム戦争激化で反戦・基地反対運動はさらに盛り上がる(参考:その時歴史が動いた:ベトナム戦争)。
瀬長は昭和45(1970)年に戦後沖縄初の国会議員の一人となる。昭和47(1972)年の施政権返還が佐藤総理とニクソン大統領の会談で決まり、5月15日に沖縄は返還されたが基地は存続した。1995年の米兵による少女暴行事件で反対運動は再び起こるが、瀬長は病気で表舞台に登場できず、2001年に94歳で死去した。
(安保や基地について参照:その時歴史が動いた:憲法9条)
【感想】◇
沖縄返還といえば佐藤総理の功績ばかり語られるが、沖縄側でも戦後一貫してその主張をして活動した人物が居た。その一人である瀬長亀次郎の闘いを中心に戦後の沖縄の状況を描いた回。
瀬長が沖縄返還の政治交渉に直接携わったり、瀬長の決断で返還が直接動いたわけではない所が物足りなさを感じさせる。あくまでも瀬長の闘いを通して、沖縄の弱い立場や沖縄の人の思いを伝えるというのが番組スタンス。
沖縄返還には「島ぐるみ闘争」と呼ばれる住民の強い意志が作用しており、その運動の核となった瀬長は「沖縄の守り神」とも呼ばれた。核となる人物には不屈の精神と清廉潔白な身上などのカリスマ性が必要で、住民の思いの代弁と、共に行動する姿勢が重要という事か。
住民運動の重要性は、日本人の居ない北方領土と比べると分かりやすいかも。あそこは実際に住んで苦しみの声を上げる人が居ないから返還すらなっていない。外からの運動ではなかなか…。竹島は住まれているし。でも沖ノ鳥島に住民票のある人もいるんだ。なんか話がアレなので深入りはよそう。
民主主義のアメリカの政治を逆手にとって、住民の意志・投票で祖国復帰を果たそうとする瀬長。講和会議で法的に沖縄支配が認められていた状況を打破していく。佐藤内閣の動きはそれら運動の高まりを受けての政治判断と言えそうだ。
番組では何故かひた隠しにしていたが、国会議員になった時の座席の位置で瀬長が何党か分かってしまった(苦笑)。瀬長の逮捕や反共アメリカからの敵視も、瀬長の所属政党による面も否定できない。純粋な返還運動という面を強調するためには、番組的には所属政党を隠すしかなかったというわけか(追記:国会議員になった時はまだ合流してなかったので一応、諸派席だったらしい)。
住民は純粋な思いで返還運動を展開し、その拠り所として瀬長を頼り、瀬長も拠り所として政党に属していたのだろうとは思う。しかし政治的に反共を掲げるアメリカや、その戦いを実際に行っている米軍としては、瀬長も住民も共産主義として括ったほうが潰しやすかったのだろう。
主義主張は別として、人権蹂躙や婦女暴行は絶対的に米軍に非があり、これをきっかけに沖縄では反対闘争に火がつく。場当たり的な対処で残った禍根の積み重ねが、沖縄支配を戦後27年間で終わらせた。
米軍としては血を流して占領した沖縄を全面返還するわけにはいかない事情もあり、面積0.6%の沖縄に米軍基地75%が集中する状態が続いている。沖縄から本土への基地移転を本土が嫌忌する現状では、沖縄の基地を減らすしか解決策は無いはずだが、基地産業の根付きや振興策・補助金などもあり、遅々として進まないね。
ちなみに執筆者の住む所には米軍用地(弾薬庫や通信設備)がある。とはいえ生まれた時からあったし、誘致したわけでもなく、かといって出ていけと強くは思っていない。それで沖縄への免罪符になるわけでもない。
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沖縄返還とは何だったのか(今回の解説:我部政明 著)
瀬長亀次郎回想録
沖縄の青春―米軍と瀬長亀次郎
沖縄における米軍の犯罪
日米関係と沖縄1945‐1972
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【あらすじ】今川義元は貴族趣味の軟弱なイメージで語られるが、実は革新的な戦国大名だった。家臣を寄親として領内各地に配置し、農民を寄子として主従関係を強化した。組織化された農民の戦いぶりは天文17(1548)年の小豆坂の戦いで発揮される。織田信秀は整然と陣形を組む今川軍を破れず敗退。義元は翌年の安祥城攻めに鉄砲をいち早く導入した。
信秀の病死で尾張攻めを本格化した義元だったが、息子:織田信長は19歳ながら英才教育を受けた闘志溢れる若武者だった。初陣の信長は野営する今川軍に火を放ち夜通し攻撃を加え撤退させた。信長は義元を手本に組織力強化に乗り出す。父の重臣に代わり、長男でない・身分の低い若者を重用。鉄砲を用いた戦法を研究し、天文22(1553)年には村木城を落とす。
信長の台頭を恐れた義元はかつてない動員をかけ、2万5千の軍勢で尾張攻略を開始。桶狭間山に着陣し、兵力を分割して織田の砦を同時攻撃した。砦は簡単に落ち、今川の兵は乱取(略奪)に散っていった。信長は3千の軍勢で清須から出撃し、桶狭間から3キロ地点で兵を2千に厳選。少数精鋭の能力ある個人の団結力を信じて号令する。
「各々の手柄を考えず、ただ勝つ事だけ考えよ」
永禄3(1560)年5月19日午後2時、義元本陣は突然の信長軍の出現に無抵抗で、一丸となって進む信長軍は義元の漆輿と護衛の300騎と激突。輿から出た42歳の義元は奮戦したものの組み臥せられ首を取られた。その後、信長は義元の首を駿河に送り返し敬意を払った。
【感想】△
今川義元は今までのイメージと違い、軍の組織化・検地・商品流通経済を導入した革新的な武将だった。織田信長は義元を手本に統治し、さらに改良を加えた組織化を進めた。全く異なる組織力の対決が桶狭間の戦いであり、信長は義元にいわば師匠越えを果たしたのだ…というもの。
桶狭間を組織の面から見た回であって、これが真説と言えるのかどうか。信長が義元を手本にしたと説明されていた割には、信長軍の組織力は義元と全く異なるとも説明され、改良という言葉が当てはまらないほどだった。信長と義元は根本的な発想から違うように思えた。
確かに義元が寄親寄子制や検地や鉄砲の導入などで革新的だった事は分かった。でも最期ではやはり公家のような漆輿に乗っており、今までのイメージが全くのデタラメだとも言えない。信長の地道な組織改革の方がイメージとしては違っていたかも。
領内全てを寄親寄子・検地によってあまねく支配し、その国力を底上げしようとした義元。対して、世代交代のために自分の身近な若者の組織化を図った信長。大軍指向と少数精鋭で両者の軍制改革は全く異なり、本当に信長が義元を手本にしたのか疑問が残る。
当時かつてない大軍勢に膨れ上がった今川軍は、数の力で簡単に勝利を重ね、寄子の略奪を止める寄親もおらず、気は緩み油断して散り散りになっていた所を信長に突かれた。大きな組織になったが団結力は乱れた今川軍。
新規に重用した若者を多く含む軍で出撃し、奇襲前にさらに厳選した信長。既存の戦場での戦い方(個々の手柄)を捨てさせ、義元だけを目指して突撃した少数精鋭の団結力。ここの部分の対比は面白かった。
信長の義元への敬意は、師匠への思いから来たものではなく、一人の武将としてあれだけの軍勢を集めた義元の手腕へのものだったのでは。この頃の信長には自分とは異なるものを認める姿勢があったと見るべきか。
全然関係ない話になるが、この時の義元軍2万5千がかつてない大軍といわれたのに、その400年前の源頼朝が富士川の戦いで20万騎も集めたって何なんだ。関ヶ原でも両軍合計18万人なのに。やっぱり平家物語とかは誇張なのかな。
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今川義元(小和田哲男 著)
戦史ドキュメント 桶狭間の戦い
織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで
信長の親衛隊
信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学
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【あらすじ】欧米列強に対抗し植民地を求めて大陸に進出する日本。東洋経済新報の記者:石橋湛山は「大日本主義の幻想」において、植民地の貿易額より英米の貿易額は2倍との根拠などから、全植民地を棄てよと主張する。戦時中に厳しい言論統制に遭うが筆を折らず、大蔵省の「戦時経済特別調査委員会」では戦後の貿易立国を断言した。
終戦後の昭和21(1946)年、吉田茂内閣の大蔵大臣に抜擢された石橋湛山は、国家予算の3分の1を占める進駐軍の経費削減に手を着ける。20%減に成功したもののGHQから公職追放された。世界は東西冷戦が深まり、日本はサンフランシスコ講和条約で西側の一員として復帰。追放を解除された石橋は、冷戦構造に風穴を開ける事を政治的使命にした。
昭和29(1954)年、鳩山一郎内閣の通産大臣となった石橋は、経済を足がかりとしたアジア外交に着手。中国との民間貿易協定を結び、日中輸出入組合も設立した。アメリカは対日援助削減をちらちかせたが、石橋はこれを無視。鳩山退陣後の総裁選に立候補した石橋は、岸信介を7票差で破って内閣総理大臣に就任。イデオロギーを超えた外交方針を打ち出す。
だが昭和32(1957)年1月25日、脳梗塞で倒れた石橋はわずか65日で退陣。その後、岸内閣が対米一辺倒の外交を展開し、日中貿易は全面停止した。台湾をめぐって米中の関係は一触即発となり、「世界を動かす大きな仕事」のため石橋はマヒの残る体で訪中。昭和34(1959)年9月17日、周恩来と会談し「日中米ソ平和同盟」構想を明かす。
2国間で解決困難な問題を4か国で話し合い、日本は米中ソの掛け橋となるプランに、国際社会で認められたい周恩来は同意。さらに台湾への武力行使をしないと語った。翌年、日中貿易は再開し民間交流も活発化した。石橋は日中国交回復の翌年の昭和48(1973)年に88歳で死去。
【感想】○
経済合理主義に基づき、戦前は一貫して日本の植民地政策に反対を唱え、戦後はアジア外交、冷戦が始まるとその構造打破のため中国との関係構築に尽力した石橋湛山。経済がイデオロギーを超越するとの思想から、日本が貿易立国となり大国間の橋渡し役となる小日本主義を実践しようとした。
石橋湛山がもっと総理大臣をやっていたら…というifはちらほら聞いた事があるが、今回きちんと湛山を知ってみると、確かにそう思いたくもなる。今の日本とは違った形の国が出来たかもしれない。
でも今回のその時は、総理大臣後の活動が分岐点であり、湛山の考え方と同様の政策が採られた(結果的にだが)のを見ると、湛山が倒れなくてもさほど変わりは無かったのかもしれない。しかし、だからこそ湛山の先見性が際立つ。
湛山が政策方針を経済から考えていた人物だというのは、戦前と戦後の外交からよく分かる。戦前はアジア植民地を切って英米貿易を訴えていたのに、戦後はアジアとの貿易を築こうとした。政治的に変節ともとれるが、経済観点から合理性があったのだろう。さらに、英米かアジアかという選択でもなく、多元的な貿易をすれば尚良し、との考えだったのだろうか。
アジア外交と言いつつ、今回は中国との関係ばかりだったのは少々疑問だが、冷戦構造に風穴を開ける手掛かりとして中国があったと考えるべきか。日本が貿易立国となる事が日本の国益に適い、東西対立で貿易を狭めるよりも多国と貿易する方が得だと。しかも冷戦を辞めれば世界平和にも繋がると。
着想は自国の経済合理性だが、最終目標は世界的な視野に至る面白さがある。これを日本以外の国にも適用する事もできるため、石橋の思想は各国首脳も無視できないものがあった。ここでこの思想を危険視するのは、世界No.1の国:アメリカ。一番であり続けるには石橋の思想はアメリカの地位を揺るがしかねない。
日本を西側の一員に留め、反共の砦にしたかったアメリカにとって、政治・イデオロギー対立を超えた貿易立国を模索する石橋の姿勢は脅威であり、石橋が総理になって狼狽してしまう。下手をすると日本が中国と組んでしまうのではないかと(これは今でもアメリカが恐れている事だが)。
石橋自身にはアメリカの懸念するような考えは無かったと思うが、当時はアメリカ自身が共産主義の恐怖を自分で増幅させている状況だったから、「中国とも」と望んだ石橋がとても危険に思えたのだろう。
結局アメリカはニクソンショックで中国と接近し日本を出し抜き、経済によってソ連を追い詰め冷戦崩壊へと導いた。石橋のやろうとしたのと同じ事をアメリカがやって成功したわけで、石橋の先見性が光ると共に、これを日本ができなかったのが痛い。今日の外交方針の迷走と対米一辺倒しか答えを見出せない遠因がここにあるのかも。
さらに、石橋と同じ事をやったアメリカは、必ずしも世界No.1でない選択と同じであるはずなのに、世界No.1に固執しているから、やたら武力に頼るおかしなイデオロギーに陥っているようにも思える。
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石橋湛山評論集
石橋湛山―リベラリストの真髄
日本リベラルと石橋湛山 いま政治が必要としていること
戦う石橋湛山(半藤 一利)
石橋湛山と小国主義
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【あらすじ】室町時代、本願寺宗主の息子だった蓮如は諸国を布教して回る。しかし親鸞が開祖の浄土真宗はこの頃には衰退しており、蓮如の旅路も貧しいものだった。民衆の暮らしも貧しく宗教にすがる者は多かったが、僧達はその心を利用し金を巻き上げていた。蓮如は本願寺の跡を継ぎ、親鸞の「四海の信心の人は皆兄弟」の言葉を実践しようと決意する。
まず僧侶に正しき行いの指導をし、門徒には「講(こう)」で念仏を唱えさせた。その後の寄合で食事を出し話し合いをさせ、異なる大名の土地同士の民の交流を生み出した。荒くれ者で敬遠されていた堅田衆にも布教するなど、蓮如の浄土宗は広まった。
文明3(1471)年、それを比叡山延暦寺などが脅威と見なし、僧兵によって堅田は焼かれ、蓮如は越前の吉崎に逃れる。親鸞の経典をかな交じりで解読し門徒に配った蓮如はここでも支持を集め、あらゆる職業・階層の人々が集うようになる。中には多数の武士も居たため、大名や寺が警戒し始める。蓮如は悲劇を繰り返さぬよう自制を求めるが、門徒の武士は応仁の乱に加わってしまう。そこで蓮如は吉崎を離れる。
文明10(1478)年、京・山科に辿り着いた蓮如は、本願寺を再建して敬謙な門徒が自治を行う仏法領をつくろうと決意。建設は難航するが大坂の門徒が吉野の山から大木を運ぶなどの協力を得て、文明15(1483)年8月22日に山科本願寺が完成。門徒の自治によりこの町は戦乱の中、50年間も平和を保ち続けた。
蓮如は明応8(1499)年に85歳で入滅。その30年後に山科本願寺は豪族の攻撃で焼け落ちた。さらにその40年後には一向宗への織田信長の徹底攻撃が行われた。
【感想】◇
戦乱の世で苦しむ民衆を救おうと、浄土真宗で極楽浄土に行けると信じさせた蓮如。幅広い層への布教活動を実践したが、そのために権力者から脅威と見なされ、幾度も攻撃を受けた。また門徒達の暴走を止められず失意のうちに居を転々とした。その果てに建設したのが理想郷:山科本願寺だったというもの。
皆兄弟の思想でどんな階層の人々も受け入れたからこそ、独自の生活圏を発展させた一種の国(仏国)を創れたのだろうと思う反面、その中に武士や僧兵が混じっていたために攻撃されたり、過激派を生む事態に発展してしまったのは皮肉な結果だとも思う。何度かの失敗を経て建設した山科本願寺は、土塁で囲んだ少数精鋭の選りすぐりで武装中立的な都市だった。
本願寺宗主の息子という、親鸞の教えを忠実に守れる立場にあった蓮如は、その運命を受け入れ積極的に浄土真宗を発展させていく。諸国の旅で民衆と僧侶の現状を見た蓮如は、仏の前では皆平等であるべきとの意識を強く持ち、念仏・講・寄合で横の関係を築いていく。
それは縦の関係で支配する権力者には目障りな存在でしかなく、武士である自分達の中からも蓮如の下へ走る者が出てくるとあっては脅威と映る。いくら蓮如が自分達からは攻撃しない方針を打ち出しても、自軍から脱する損害が絶えず、蓮如もそれを受け入れているならば、近隣大名にとってこれは一種の攻撃である。
受け入れた武士の過激化に蓮如は苦悩したが、皆兄弟という平等精神とのジレンマで排除もできなかったのだろう。同列に論じるのは少し危険かもしれないが、今のイスラム教も本当は平和な宗教なのに過激派によって凶悪なイメージが浸透している。蓮如の浄土真宗も「念仏さえ唱えれば何でも許される」との曲解によって過激派を生んだ。ジハード(聖戦)を本当に戦争だと解釈するイスラム過激派もこんな感じなのだろう。
結局、蓮如は自らが定めた掟を遵守させる手段を取り、山科本願寺は門徒達に自治を任せたものの、この掟を守れる者だけが生活できる空間だった。それは本当に蓮如が思い描いた理想郷と言える物なのか少々疑問も生じるが、様々な職業の人がいる都市が出来たのは事実であり、その点からは仏の前での平等が証明されているとは思う。
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図説 蓮如 一向 南無阿弥陀仏の世界
蓮如―本願寺王国を築いた巨人
蓮如―われ深き淵より(五木 寛之)
蓮如―聖俗具有の人間像(五木 寛之)
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【あらすじ】文久3(1863)年、攘夷論の長州藩は下関を通過する外国船を砲撃。イギリス公使オールコックは米・英・仏・蘭の四ヵ国艦隊の結成を呼び掛ける。イギリスに密航留学していた伊藤博文と井上馨は新聞で四ヵ国艦隊を知り、平和的解決のため帰国。オールコックと面会し時間的猶予を貰い、長州藩への説得を試みたが不調に終わる。
元治元(1864)年、四ヵ国艦隊は横浜を出港。同時期に徳川幕府も長州征伐を決める。長州藩は伊藤と井上を調停役とするが時既に遅く、下関は四ヵ国艦隊の砲撃を受け占領される。一方、高杉晋作らの奇兵隊が長州藩の実権を握り、薩長同盟を結んだ長州は新式銃によって幕府軍に勝利する。慶応3(1867)年10月14日には大政奉還がなされる。
12月7日に開港された神戸には多数の外国人が上陸。9日には王政復古の大号令が発せられ新政府が樹立される。慶応4(1868)年1月11日、神戸三宮神社前で備前藩の隊列を横切ろうとしたフランス水兵に対し、これは「供割」だとして槍で制止した隊士。銃撃戦にまで発展し、列強は安全確保のため神戸沖の艦船から陸戦隊を上陸させ、神戸中心部を占領。軍事統治下に置いた。
伊藤博文は直ちに調停に乗り出し、イギリス公使パークスと面会するが、新政府になった通知もなく、攘夷も抑えられていないと言われ交渉にも入れない。朝廷に取って返し外国事務掛に任命された伊藤は、1月15日に新政府の宣言と開国和親を列強外交官に伝える。しかし伊藤は発砲命令者の処刑を要求する列強と、徹底抗戦の構えを見せる備前藩の間で苦悩する。
伊藤は「万国公法」に則り、備前藩から責任者を差し出させる。列強にも今後の外交問題は万国公法で処理すると伝え、事件は解決する。2月9日、神戸永福寺にて滝善三郎の切腹を外交官の前で行わせた伊藤は
「見届けましたね」と一言。
列強は神戸の占領を解いた。
【感想】◇
明治新政府になっての初の外交問題である神戸事件。交渉の経過によっては下関事件や薩英戦争のような全面的衝突に発展したり、神戸が香港・マカオのような租借地になる恐れもあった。この解決にあたった伊藤博文の決断が新政府の基本方針にもなったというもの。
伊藤の迅速な対処と、その行動を支えた思想が重要な鍵となるため、伊藤の神戸事件までの半生に大きく時間を割いてしまい、肝心の神戸事件はオマケのような扱いになっていた。解決に持ち出した万国公法も、伊藤がそれを知ったきっかけの説明もなく、突飛な感じは否めなかった。
全体としてはやはりこの時代は武力を持つ者が強いという印象。下関事件で圧倒的戦力を持つ四ヵ国艦隊は大勝し、伊藤も加わった奇兵隊は武力で藩の実権を掌握。武器の差で幕府軍に勝つ長州。そして新政府を樹立した矢先、あっという間に神戸を武力占領する列強。
しかし、だからこそ平和的解決で済ませた神戸事件の意味合いが大きくなる。武力を持つ欧米列強と事を構えぬため、不平等な条約を結ばされた徳川幕府。これに対し明治新政府は万国公法に則ると宣言し、欧米列強と対等な立場を強調する。武力ではまだまだ全く敵わない時期であったが、最初の事件でこの姿勢を打ち出したおかげで新政府の軸が定まった。
伊藤に行動力があった事も大きい。その行動の根底には留学の途中で見た上海の光景があったそうだ。戦いに敗れて列強の租界となった上海では、奴隷のように人々が扱われていた。日本もこうなってはいけないとの強い思いが伊藤を動かしていた。
徳川幕府時代の外交交渉では常に引き伸ばし戦術が取られ、それが状況の悪化をもたらした面があるが、新政府での伊藤の対処は実に迅速。ここでは、新政府が発足したばかりで役割分担や人材も不足していた事が、逆に好結果に結びついている。伊藤に全て任せるしかなかった未熟さ(悪く言えば機能不全)が、伊藤の個人プレーが思う存分発揮できる状況となった。
ここで伊藤に賢明な判断力が備わっていた事も幸いしている。攘夷でもなく媚びへつらう開国でもなく、万国公法という国際ルールを持ち出した。その一方で切腹への立会いを求めるという情に訴える手段も使った。国際ルールでの処分を日本式な切腹で果たす。ハラキリを初めて見た外交官らが衝撃を受けた事は想像に難くない。蔑視していた日本人に何かを感じ取っただろうか。
参考記事:その時歴史が動いた:薩英戦争
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神戸事件―明治外交の出発点
密航留学生たちの明治維新―井上馨と幕末藩士
長州戦争―幕府瓦解への岐路
幕末長州藩の攘夷戦争―欧米連合艦隊の来襲
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【あらすじ】昭和30年代、日本でサッカーは人気がなく代表チームも連戦連敗。しかし東京五輪で勝利を挙げるため、日本蹴球協会は西ドイツからデットマール・クラマーを特別コーチに招く。常に選手と行動したいと言い張るクラマーは、ホテルを出て選手と共に寝泊り。高度な戦術の伝授を期待した選手達にクラマーが教えたのは基本練習だった。
やがてクラマーは日本人の勤勉さと俊敏さを生かした独自戦術を編み出す。低く速いパスと正確なボールコントロール、パスアンドゴーを叩き込む。精神面では武士道や大和魂を見せろと要求。その指導に選手達は必死に付いていった。さらにクラマーは長沼健を後継指導者、岡野俊一郎を情報・戦力分析を主とするコーチに指名。
昭和39(1964)年10月の東京五輪での対アルゼンチン戦、体格は良いが動きの鈍いアルゼンチンに対しコンビネーションの速攻を指示したクラマー。1-2で負い込まれていた日本代表は、後半36・37分に連続ゴールを決め逆転勝利。目標を達成したクラマーは帰国する。
昭和40年、長沼・岡野体制となった日本代表は、杉山隆一の突破力、釜本邦茂の得点力を攻撃の軸に据える。左サイドは杉山一人に全て任せ、釜本には右足だけでなく左足でのゴールも求めた。この戦術でアジア予選を突破しメキシコに乗り込む日本代表。
昭和43(1968)年10月14日、対ナイジェリア戦で釜本はハットトリック。16日の対ブラジル戦で苦戦する日本に、観戦していたクラマーから渡辺を入れろとのメモ。渡辺正を投入した直後、杉山-釜本-渡辺のラインでゴールが決まり引き分け。18日の対スペイン戦でも引き分け予選突破。さらに20日の対フランス戦に3−1で勝利しベスト4進出。
しかし22日の対ハンガリー戦は0-5で敗れ選手達の疲労もピークに。24日、開催国メキシコとの3位決定戦を迎える。長沼監督は
「プレッシャーを感じるのは期待の掛かるメキシコだ。我々に失うものはない」
と選手達を落ちつかせる。前半に2点を奪った日本は後半にキーパー横山謙三がPKを止める。その後も必死の防衛を続ける懸命な姿にメキシコ観客は日本を意味する「ハポン!」の大声援。日本代表は2-0で銅メダルを獲得。
祝福のため宿舎に掛けつけたクラマーが目にしたのは、意識を朦朧とさせて倒れる代表選手達だった。
「これほど全力を尽くしたチームを見た事はありません。彼らの姿は大和魂そのものでした」
【感想】○
アジア大会でも一勝もできず予選落ちするほどの日本代表に、東京オリンピックでの一勝を授けた「日本サッカーの父」デットマール・クラマーの指導と、その後メキシコオリンピックで銅メダルを獲得するまでに至った監督・コーチ・選手の戦いを描く。どん底から銅メダルまでの流れが良く出来ていて、熱くさせるドラマとして完結していた。
クラマーが自分の使命である東京オリンピックでの一勝だけでなく、その後の日本代表のために知恵や組織体制を授けていったのが大きい。その場凌ぎの戦術から入っていったのではなく、基本練習の徹底から指導。この単調な練習に選手が従ったのは、クラマーが共に寝泊りするなど、雇われコーチとしてでなく選手の中に入っていったから。
次にクラマーは自分の持っている戦術理論でなく、日本人に合った独自戦術を考案。自分も共に学んでいく姿勢を示す。さらに技術だけでなく精神面でも武士道や大和魂という日本独自のものを要求した。この精神面は誤解もされやすい概念だが、メキシコオリンピックでのフェアプレー賞獲得という結果を見ると、クラマーの求めたものが見えてくる。
後継の指導体制もしっかりと決めて去ったクラマー。その体制の下でさらに発展していく日本代表。杉山-釜本の必勝パターンの確立とそれへの絶対の自信。ブラジル戦でクラマーは杉山を外せとのメモを出すが、長沼・岡野は外さない判断で引き分けに持ち込んだ。
日本チームは全く注目されておらず、諸外国チームは杉山-釜本への対処法も編み出せない。過密な試合日程が日本代表の破竹の進撃に寄与したように思える。だがそのハードスケジュールが選手らを疲れさせる。何しろ勝ち進むという経験が無かった日本代表は、体力配分など何も分からない。
ここで最後の切り札となったのはやはり大和魂。死ぬ気で倒れるまで動き続けようと心に決めた選手達。この気迫がメキシコの観衆の心を掴む。自国開催で自国チームの応援に来ていたメキシコ人が、日本に声援を送るという信じがたい現象に発展する。ベルリンオリンピックでも観衆は日本を応援したが、それは自国チームでない分もあった。今回はその時よりも凄い事態。
本当に「ハポン!」の大声援でスタジアムが包まれたのかは、VTRでははっきりとは分からなかったが、自国メキシコチームのふがいなさへのブーイングは確実にあっただろう。最近でもイランでやった日本-イラン戦で後半にイラン人が自国チームにブーイングしてたし。
ベルリンオリンピックでの勝利は、戦争や野球人気に押されて忘れ去られた。このメキシコオリンピックでの銅メダルは、成功体験となって、その後の日本代表の「目標」として語り継がれたという。
しかしこの銅メダルから、なぜその後20年以上も日本代表は低迷を続けたのだろうか。その低迷があったから、この銅メダルも「奇跡」で片付けられているフシがある。今回はこの銅メダルが奇跡ではなく、クラマーのじっくりした指導と、長沼・岡野の確立した戦術によるものだと分かった。ではメキシコ以降の日本代表の低迷は…と考えると何となく答えが見えてきそうな気がする。
関連記事:その時歴史が動いた:日本サッカー(ベルリン五輪)、東京オリンピック
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【あらすじ】東大寺大仏の建立を進めた聖武天皇(その時歴史が動いた:東大寺大仏)は息子を亡くしており、娘を孝謙天皇として天平勝宝元(749)年に即位させた。仏教の興隆と皇位の継承を宿題として科して天平勝宝8(756)年に聖武上皇は崩御。孝謙天皇の政権基盤は弱く、翌年には橘奈良麻呂の変が起き、天平宝字2(758)年には従姉弟の淳仁天皇に譲位せざるを得なくなった。
政治の実権は淳仁を養子として育てた藤原仲麻呂が握り、孝謙上皇との対立が続く中、孝謙は病に倒れる。それを看病したのが東大寺で学び大陸事情にも明るかった削弓道鏡だった。孝謙と道鏡の男女関係が噂されると、孝謙は尼僧の姿となって淳仁天皇を攻撃し実権を奪い返す。藤原仲麻呂が反乱を企てたとして天平宝字8(764)年の恵美押勝の乱で淳仁を監禁し仲麻呂を斬首。孝謙は称徳天皇として再び即位した。
道鏡と共に仏教の振興に努めた称徳天皇だったが、神護景雲3(769)年5月に大分の宇佐神宮から「道鏡に皇位を譲るべし」との神託(お告げ)が送られて来る。和気清麻呂を派遣し神託の真偽を確かめた所、清麻呂は「道鏡を排除すべし」との神託を持ち帰る。称徳天皇は清麻呂と藤原氏が謀略をしたと激怒し、清麻呂を穢(きたな)麻呂に改名させ流罪にした。
神護景雲3(769)年10月1日、称徳天皇は道鏡への譲位を諦め、臣下と藤原氏全員に「恕」と書かれた長さ八尺の帯を配った。譲位問題を白紙に戻し、これ以上の対立を生まぬよう臣下らを許したのだ。称徳天皇は翌年に崩御、その2年後に下野に左遷されていた道鏡も死去。朝廷は長岡京に遷都して仏教勢力とは距離を置いた。
【感想】△
古代史最大のスキャンダル:道鏡事件。孝謙(称徳)天皇と恋仲にあった道鏡が、皇位を狙ったとされる。しかし今回の番組は違う解釈を立て、孝謙(称徳)天皇が道鏡に皇位を譲ろうとしていた…というものになっている。
しかし番組内のVTRを見ても、最初の神託が出てきたのは道鏡が仕組んだと直感してしまう作りになっていた。その後もその直感を覆すほどの説明がなされない。称徳天皇が道鏡に皇位を譲りたかったのなら、最初の神託をすぐに採用すれば良いわけで、わざわざ確認のため和気清麻呂を派遣した行動の説明がつかない。
称徳天皇の行動の原点として、聖武天皇からの宿題(仏教の興隆と皇位の継承)が挙げられている。道鏡に譲位すればこの2つの課題を同時にクリアできるから、称徳天皇は乗り気だったという。その時の理由付けとして聖武の
「天下は汝に授けた。王を奴婢にするのも、奴婢を王にするのも汝の自由だ」
との言葉を反芻していた。
この言葉を文字どおりに解釈すれば、道鏡を天皇にするのも自由という事になるが、これはむしろ言葉のあやと捉えるべきはないか。孝謙の弱い立場を心配していた聖武による、孝謙への勇気付けと周囲への牽制を狙ったものだと思う。天皇の孝謙にはそれだけの力があるのだとの比喩的な表現ではないだろうか。
よってこの聖武の言葉を文字どおりに受け取って道鏡事件を解釈していく事には、納得のいかない面がある。結局、称徳天皇は道鏡への譲位を行わないが、同時に臣下や藤原氏への処分も不問に付す。白紙に戻した政治的決断は、絶妙なバランスをとったけんか両成敗にも思える。
2つの全く正反対の神託は、どちらも偽物だったと考えるべきだろう。最初の神託は道鏡の作り物だし、2番目の信託は和気清麻呂と藤原氏による作り物。称徳天皇は道鏡の出してきた神託の処理に悩み、和気清麻呂に真偽を確かめさせた。しかし清麻呂は藤原氏と結託して正反対の神託を持ってきた。
真偽確認を命じたのに、2番目の神託を清麻呂が新たに作った事に称徳天皇は激怒したのではないか。その2番目の神託から、道鏡と対立する勢力の確かな意思が浮かび上がった。称徳天皇は1ヶ月間考えた末、道鏡の地位はそのままに、2番目の神託を持ってきた張本人の清麻呂のみを処分した。
つまり、道鏡の最大の目的(譲位)は絶対に無いと明確にした一方、藤原氏らの勢力の最大の目的(道鏡排除)も採用せず、最小の処分で済まして寛大な姿勢を見せた。ここで恩を売ったおかげで、称徳天皇の死後も道鏡の命に藤原氏は手を出せず、左遷で済ませたと見るべきではないか。
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女帝の手記―孝謙・称徳天皇物語 (4)
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争乱と謀略の平城京―称徳女帝と怪僧・道鏡の時代
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【あらすじ】明治30年代は都市化が進み、新聞小説が脚光を浴びた。平井太郎は新聞小説から文学に興味を持ち、大学生時代にエドガー・アラン・ポーの「黄金虫」を読んで感銘を受ける。探偵小説の本場:アメリカへの夢を抱くが、渡航費用がなく断念。しかし大正11(1922)年に探偵小説を特集した「新青年」が創刊され、平井は江戸川乱歩として「二銭銅貨」でデビュー。
その後2年間で短編28・長編4本を執筆し、大正14(1925)年には「D坂の殺人事件」で名探偵:明智小五郎を登場させる。100万部以上の発行部数の雑誌への連載も積極的に行い、昭和4年の「芋虫」で乱歩はエロ・グロ・ナンセンス時代を代表する作家となった。しかし、猟奇的な殺人事件が起きると乱歩が犯人だと投書され、乱歩自身が猟奇的人物であるとの虚像が独り歩きし、乱歩は大衆に嫌気が差して執筆を絶ってしまう。
昭和10(1935)年、少年倶楽部から少年向け小説の依頼を受けて書いた「怪人二十面相」の少年探偵団が大人気となる。だが翌年からの日中戦争で「探偵小説は反体制的」とされ、警察や内務省の検閲は激しくなり、太平洋戦争開始後に乱歩作品は全て絶版にさせられた。
終戦後、乱歩は疎開していた福島での就職を取り止め11月に帰京。昭和21(1946)年4月に探偵小説専門誌「宝石」の刊行を手伝う。ここで乱歩は自らは執筆せずプロデューサーとして小説の審査員や海外作品紹介をする。昭和22(1947)年6月21日に探偵作家クラブ(日本推理作家協会の前身)を設立し、講演や座談会、人材の発掘と育成に力を注いだ。戦後も書き続けたのは「少年探偵団シリーズ」だった。
【感想】◇
日本での探偵小説の先駆者であり、ミステリー小説界を発展させた人物である江戸川乱歩の、大衆との関係性を追った回。
初めは自分がアメリカに行ってそこで執筆活動をしようと思っていた乱歩。費用がなく断念したが、日本でも探偵小説誌が創刊し、受け入れられる素地が出来たと見るや多数の作品を世に出し、たちどころに人気作家となる。しかし大衆は、作品から乱歩も猟奇的だと連想し、その慮像に乱歩は押し潰され大衆を信じなくなる。
そんな乱歩を救ったのが少年倶楽部であり、純粋に話の筋を楽しむ読者:少年少女達だったのだろう。だが大人達が始めた戦争のために、乱歩は書きたくても書けない状況に追い込まれていく。
戦後になると乱歩は一転して作品を審査する側に回る。山田風太郎・横溝正史・仁木悦子・松本清張などの新人発掘に関わる。それでも「少年探偵団シリーズ」だけは執筆を続けた…というのが大まかな流れ。戦前と戦中の二度の断筆は意味合いが異なり、戦前は自ら書くのを辞め、戦時中は書くのを禁じられた状況だった。
乱歩の活動は、戦前と戦後で執筆からプロデューサーに変わったと見るよりも、「少年探偵団」の前後にこそ転機があったように思える。大衆によって作られた乱歩の虚像は、乱歩自身を相当深く傷付けたのではないか。
論理的な筋で犯人を特定する推理小説の書き手にとって、非論理的な邪推で自分が犯人だと投書されるのに耐えられなかったのだろう。戦後の団体設立や人材育成も、傷付いた自らの経験を他人に負わせたくない…との思いがあっての事のように思える。
探偵小説の第一人者として走ってきたが、だからこそ非難も一身に受けた乱歩。業界団体を設立し、仲間を増やして誤解を招かないようにする。その団体内での交流を大事にして作家仲間を守ろう…との意識があったのではないだろうか。「少年探偵団」の継続執筆も、すそ野を広げての後継育成の一環であると同時に、乱歩が邪推のない少年少女を好きだったからだと思う(ま、この記事も邪推だけど)。
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探偵小説四十年(上)、(下)
うつし世の乱歩 父・江戸川乱歩の憶い出
江戸川乱歩と少年探偵団
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【あらすじ】平治元(1159)年の平治の乱で平清盛と戦った源義朝は、関東武士に動員を掛けるが、拒否されて兵力不足で敗れる。その子:源頼朝(14歳)は捕らえられ伊豆の蛭ヶ小島(韮山)へ流罪。平家は隆盛を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言われる。治承3(1179)年には後白河法皇を幽閉し反対派を一掃した。
治承4(1180)年、以仁王の乱が起き、全国各地の源氏に平氏追討の令旨が発せられる。対して平氏は令旨を受け取った者を追討する事を決め、令旨を受け取った頼朝(34歳)はやむなく決起。各地の豪族に参加を促すが40騎しか集まらず、8月23日の石橋山の戦いで敗れる。箱根山中をさ迷い、真鶴から海路で安房に逃れるが、首を狙う豪族に襲われる。
9月1日、頼朝は以仁王の書状に「東国各地の土地支配権は頼朝に任せる」とあると主張。しかしこれは全くの嘘で捏造だった。それでも4日には安房国の安西氏、17日には下総国の千葉氏(3百騎)が合流。日和見だった上総広常(2万騎)も19日に頼朝の気迫に負けて服従。
広常「頼朝は大将軍なり」
隅田川の交通支配権を握る秩父平氏は、平治の乱以降に平家と結んでいたが、4代前の源義家から恩賞を与えられていた。頼朝は源氏の白旗70本を岸辺に掲げ、秩父平氏に過去の恩義を思い起こさせた。頼朝の軍勢は10万騎に膨れ上がり、10月11日に鎌倉入り。
「平家は今の主、頼朝は4代相伝の君なり」
9月5日の朝廷による頼朝追討の宣旨を受け、清盛の孫:平維盛(24歳)を総大将とする平氏軍は駿河に到着。駆武者という兵の現地調達を行ったが、見返りの無い平氏軍に加わる者は少なく、3万騎しか集まらなかった。一方の頼朝軍は20万騎で富士川に到着。10月20日夜半、水鳥の飛び立った音で平氏軍は逃げ出し頼朝勝利。23日、頼朝は約束どおり兵達に土地を恩賞として与えた。
【感想】◇
囚われの身から40騎で決起し敗れた頼朝が、わずか2ヶ月後には20万騎の大軍を集めて勝利したのはなぜか、兵力5千倍の秘策に迫る回。
執筆者は小学校時代に鎌倉へ社会科見学に行った関係で、頼朝について事前に結構学んだ記憶がある(小学生にしては学んだという意味)。その頃から「なぜこれほど短期間に大兵力となったのか」が疑問だった。その時読んだ本には「平氏に不満を持つ源氏がどんどん集まったから」との理由が説明されていた。それでは石橋山の数十騎で敗れたのは何だったのかという疑問はずっと残っていた。
今回、それらの疑問が解消されるのかと期待して見たが、納得できたようなできないような。石橋山の時の頼朝は拙速で兵(つわもの)としてのカリスマ性にも欠けていた、との事。でも死線を越えて強くなり、知略にも長けていったという説明。そして肝となる部分が以仁王の書状のハッタリだった。どうも石橋山の頼朝と安房に着いてからの頼朝が、武勇でも知略でも別人のように思えて仕方がない。
それはそれとして、平氏に取り入った一部の源氏のみが栄え、大部分の源氏は現状に満足していなかった…という状況を読んで以仁王の書状の、土地支配権に関するハッタリを持ち出した下りは、ある程度納得の行くものだった。関東の所領を守る事しか頭に無く、父:源義朝の動員に応えなかった東国武士という気質を理解した上での知略とも言える。
頼朝の大兵力の出発点がこうした嘘に拠るものだからこそ、頼朝は信頼という感情に懐疑的で、後に云われるドライな政治を行っていったのだと解釈できる。番組最後に石橋山の戦いで死んだ者の墓前で涙した頼朝が紹介されたが、信頼に値する人達はあの40騎だけだったという事か。
あと、今回に限らず少々疑問に思うのは「騎」という表現について。騎は馬に乗った兵士の事であり、普通はその他に馬の世話係や食料・武器持ち、家来の足軽などが付くので、1騎には4〜5人を伴う(と理解しているが)。つまり20万騎というと100万人が源氏軍として参加していてもおかしくない計算になるが、そんなに居たのだろうか。鎌倉から富士川まで4日で100万人も移動できるほど兵站が進んでいたのだろうか。
4万騎・20万人と考える方が正しい気もする。または「騎」という表現がこの時代の記述と今の漢字の意味で違うと考えるべきか。はたまた、20万騎というのが誇張された数字なのだろうか。こういった所が、歴史に詳しくない身としては何時までも変な疑問として残ってしまう…。
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源平合戦の虚像を剥ぐ
頼朝の精神史
源頼朝―鎌倉殿誕生
源平闘諍録―坂東で生まれた平家物語(上)、(下)
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【あらすじ】昭和21(1946)年11月3日に公布、翌年5月3日に施行された日本国憲法。象徴天皇制・国民主権・戦争放棄を柱とし、徹底した平和主義から生まれた憲法だった。憲法九条では、国権の発動たる戦争・武力の行使を永久に放棄、陸海空軍その他の戦力の不保持、国の交戦権も認めないとされた。
憲法作成に当たってGHQのマッカーサーは、天皇が日本の統治に必要と考え、天皇の戦争責任回避のため、戦争放棄と戦力不保持を明確にしようとした。日本政府(吉田茂首相)も国体護持・天皇制存続のためにこれを受け入れ、議会も新憲法案を可決した。(参考:その時歴史が動いた:白洲次郎)
しかし東西冷戦・朝鮮戦争の勃発により、アメリカは日本を「反共の砦」と位置付け方針転換。講和交渉のダレス全権大使は日本に再軍備を求めた。吉田首相は保安部隊創設を決断し(参考:その時歴史が動いた:吉田茂)、昭和26(1951)年9月8日、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約に調印。そして昭和27年に保安隊、昭和29年に自衛隊が発足。吉田は苦しい解釈で「戦力に至らしめない軍隊」と答弁。(参考:その時歴史が動いた:サンフランシスコ講和条約)
国を守る軍事力が持てるよう憲法で明記すべきとする改憲論を唱えた岸信介らは、改憲に必要な衆参両院での3分の2以上の議席を確保するため、保守系合同を進めて昭和30年(1955)年に自由民主党を結成。一方、改憲は軍備増強に繋がるとする護憲論の浅沼稲次郎は、同年に左右の社会党を統一した。翌年の参院選では護憲勢力が3分の1以上を確保し、国民は改憲を否定した。
昭和32(1957)年に発足した岸内閣は、不平等な安保条約の改定によって世論を味方に付け、改憲を目指すとの方針を出す。米軍に用地を接収された東京立川の砂川では、基地反対運動(砂川闘争)の末、昭和34年に東京地裁が在日米軍を違憲と判断。最高裁でこの判決は破棄された。
昭和35(1960)年1月に日米新安保条約は調印され国会審議されたが、第五条(一方が攻撃を受けた場合の共通対処)から戦争に巻き込まれる危険性があるとして社会党は猛反発。ソ連領空による米U2偵察機撃墜とフルシチョフの基地攻撃警告によって、その懸念は現実のものとなったが、岸は安保条約改定を強行採決(5月19日)。国民の間に安保闘争が沸き起こった。
安保条約の自然承認(6月19日)の1ヶ月後、岸は退陣し池田勇人内閣が発足(7月19日)。9月7日、池田内閣の方針記者会見において池田は「憲法改正は いま考えていない」と表明。以来、経済成長に注力し、改憲は戦後60年なされていない。(参考:その時歴史が動いた:所得倍増計画)
【感想】○
憲法9条の成立過程から、池田が改憲論議を封印するまでの13年間を、国際・国内情勢を踏まえつつ、改憲・護憲勢力の闘いとして描き出す1時間の拡大版。NHKらしいバランス感覚を発揮しつつ、VTRとスタジオ解説も普段どおりの進行で、良く1時間でまとめたなとまずそこに感心した。
憲法記念日に合わせ「NHKスペシャル:日本国憲法誕生」「ETV特集選:焼け跡から生まれた憲法草案」も放送され、それらも視聴した上での記事を書いていく。これら3本から言えるのは、改憲論者の強力な論拠の一つである「押し付け憲法」というのが誤りである事だ。
GHQの憲法草案は、日本の憲法研究会が発表した憲法草案に大きな影響を受けて作成された。そして憲法研究会の憲法草案は、大正デモクラシーとその後の弾圧を経験した人物らから生まれた。さらにそれは、明治期の自由民権運動での憲法草案をも参考にしていた。もっと遡ると、自由民権運動はアメリカ独立・フランス革命での宣言を基にしたものである。日本国憲法の平和主義は突如としてGHQが出した物ではなく、世界史・日本史の中で脈々と受け継がれてきた思想から誕生したのである。
太平洋戦争で無条件降伏した大日本帝国だったが、裏では国体護持を条件として求めていた。そしてロシアと戦い続けるよりは国体護持の可能性があったからこそ、米主導のポツダム宣言を受諾した。終戦後、マッカーサーはすぐに天皇制存続を決め、幣原・吉田両首相との利害も一致している。
ここで肝心なのは天皇制であって、憲法9条はむしろ取引条件ともいえる重要度だった。取引は押し付けとは違い、双方の合意に基づくものである。さらに憲法草案は日本の国会審議で修正も加えられた上に、明治憲法の改正手続きに従って可決成立したものだ。
この当初の、憲法9条の重要度の低さが今日までの複雑な問題を生み出したとも言える。マッカーサー、GHQ、極東委員会、憲法研究会、幣原・吉田首相、国会…などなど、日本国憲法作成に携わった人々にはそれぞれ思惑があったが、共通して言えるのは2つあり、1つは天皇制を優先して検討した事、もう1つは共産主義の拡大・伸張を予期していなかった事である。
ここから憲法9条の問題は国際情勢を抜きには考えられなくなる。そして憲法9条に存在する作成時からの曖昧さは、国内的な対立構造を生み出していく。
朝鮮戦争を受けてアメリカは方針転換し日本に再軍備を求めた。世界には「平和を愛する諸国民の公正と信義」が通用しない勢力が存在し、日本の「安全と生存」は保持されないとアメリカは結論付けた。その頃、講和条約を締結し国際社会への復帰を目指していた吉田内閣は、これを逆に利用し、自衛権に基づく最小限の実力を保有する事を日本から提案する形でサンフランシスコ講和条約を結んだ。
これが解釈改憲の始まりであるが、憲法9条の曖昧さが幸運に作用した。一読して理想論ととれる憲法9条は、曖昧さによって可能となった解釈により、現実でも充分に通用する事となった。
自衛権の有無は作成当時から明確にされていない。GHQ内で作成に携わった人物の間では、自衛権も放棄すると考えていた人もいれば、自衛権は当然持っているから明文化するまでもないと考えていた人もいる。日本側でも自衛権の問題が将来出てくると指摘した委員もいれば、自衛権なんて概念すら考慮しなかった委員もいた。憲法9条はどちらともとれる要素を当初から含んでいた。
このような内部事情が、証言により詳細に明らかとなったのは戦後だいぶ経ってからであり、その前の改憲・護憲論争がこれらをどこまで把握した上でのものだったかを考えると、時系列的連関が怪しくなってくる。だからこそ「押し付け憲法」との主張も大手を振ってまかり通り、一文一句変えない護憲論も一定勢力を保ち続けたとも言える。
岸信介の進めた安保改定は、改憲への搦め手であり、その戦術の小ざかしさを国民は感じ取り、純粋に平和を唱える浅沼稲次郎が共感された。2000万人の反対著名やデモに自衛隊出動が真剣に検討されるなど、はっきり言って憲法9条クンも泣くというか笑うしかない状況である。
砂川闘争の伊達判決で法律面でも安保条約の根底が揺るがされる可能性が示され、安保闘争での国民の怒りを目の当たりにした政府自民党には、岸退陣以降に改憲の「信念」とやらを表立って言う者はいなかった。池田は国内問題を軍事から経済重視に切り替え、改憲論を封印した。
それにより改憲・護憲論争も下火になり、その後の様々な国際要因も絡まって問題が複雑化、日本が経済成長で発展を続け、国民からも第9条を含めた憲法は遠い存在になった。
護憲勢力は、戦後日本が戦争をしなかったのは憲法9条のおかげとの思想で満足し、理想論の平和主義に安住した。一方の改憲勢力は、国民と憲法の意識乖離を現実的なチャンスと捉え、その乖離をも改憲の理由に据えて、自分達に有利な改憲論議を進めようとしている。
世界の歴史の流れの一端から生まれた日本国憲法は、戦後世界の影響を受け、解釈改憲で対応しつつ60年間の不変を保った。憲法9条は成立当初には想像もつかなかった役割を担わされる事態に直面した。それでも、成立過程から存在した両義にとれる曖昧さによって国内政治を二分しつつ、国民は結果的にそのバランスをとった世論と投票で政治を動かしてきた。
憲法9条の問題の解消策は、一個人の理解も能力も超えたものになっている。よって単純な改憲・護憲の二分法で結論し主張する人物を執筆者は信用できない。その主張の裏には、不純な動機や単純な平和思想があったりする。ただ、吉田は憲法9条をもドライに駒として使って上手かった、岸はやり口も汚い、浅沼は良くも悪くも国民レベルを理解していた、池田は新たな夢の提示で巧妙だったなとは思う。
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新憲法の誕生
憲法九条はなぜ制定されたか
日本国憲法・検証1945-2000 資料と論点 九条と安全保障
日米同盟の絆―安保条約と相互性の模索
岸信介証言録
浅沼稲次郎―人間機関車
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【あらすじ】黒船来航の直後に急死した13代将軍家慶に代わって将軍となった家定。その正室として選ばれたのは島津斉彬の養女:篤姫(役:岩崎ひろみ)だった。篤姫は斉彬から次期将軍を慶喜とするよう密命を帯びて安政3(1856)年12月に大奥入り。しかし大奥を批判する水戸藩は大奥から嫌われ、篤姫の政治工作は失敗。1年半後には夫:家定が死去し、紀州藩の家茂が将軍となる。
天璋院となった篤姫。家茂の正室には公武合体の象徴として孝明天皇の妹:和宮(役:吉井怜)が降嫁する。天璋院は自分と似た境遇の和宮を支える事を新たな使命とするが、公家の和宮は武家の天璋院から姑として指図されるのを嫌った。しかし和宮と家茂の間に愛情が芽生え、和宮は武家のしきたりに従うようになる。
攘夷を求める朝廷と通商条約を結んだ幕府の関係は悪化し、改善のため家茂は上洛。天璋院は若い家茂が朝廷に丸め込まれると懸念した。その不安は的中し幕府は実行不可能な攘夷の約束をさせられる。家茂は第二次長州征伐の陣中で病死、天璋院には和宮の胸中が痛いほど理解できた。
慶応4(1868)年1月3日、鳥羽伏見で天璋院の実家:薩摩家は幕府軍と衝突。幕府は朝敵となり、その倒幕の命を朝廷から出して指揮したのは、和宮を降嫁させた岩倉具視だった。天璋院(と和宮)は、実家が嫁ぎ先を攻めて来るという事態に直面する。形勢は著しく幕府に不利で、慶喜は江戸に逃げ帰り、天璋院と和宮の勧めで助命嘆願書を書く。
倒幕軍は江戸に迫り、江戸攻撃を3月15日と定める。天璋院も城内からの退去を勧められるが、これを敢然と拒絶。和宮と共に短刀を構えて自害の姿勢を見せる。勝海舟はこれを知り
「天璋院は貞婦というか烈婦」と評した。
天璋院はかつて自分の監視役で現在は倒幕軍を指揮する西郷隆盛に書状を出し、徳川家存続と平和的解決を一命にかけて訴えた。これが西郷の心を痛撃し、西郷は3月14日の勝海舟との会談で「江戸城総攻撃中止」を決定する。そして4月11日、江戸城は無血開城された。
天璋院は大奥の解散を見届け、身一つで退去。島津家の支援を断り、女中の再就職・縁談に奔走。着る物にも困る生活を送りつつ、明治16年に48歳で逝去。静寛院宮となった和宮は明治10年に32歳で亡くなっている。
【感想】○
フジテレビのドラマ「大奥」や2008年NHK大河ドラマ「篤姫」の題材である天璋院篤姫の江戸城無血開城の回。その生涯はあまりにもドラマチックで、感想など改めて書く必要も無いほど。
女性が主役でその視点から歴史を捉える回は、どうしても情緒的になってしまうが(別にそれが悪いとかではなく)、今回は天璋院が西郷に出した書状がどういった経緯から生まれたのかを、一人の女性の境遇からきちんと説明できていた。
将軍の後継に隠然たる影響力を持つ大奥で、そのトップとなる正室の地位についた篤姫。島津家は一橋派として慶喜擁立を篤姫に託す。政治的に利用された結婚であり、篤姫は武家の女としてその密命を果たそうと努力する一方、自分の夫:家定が将軍として何も期待されていない事を不憫に思う。そして実際、家定は将軍として政務を司れる器でない人物だった。
家定が早々と死に、次期将軍も井伊直弼の力で家茂となり、天璋院は使命を失う。ここで和宮という自分と似た運命を背負う女性が大奥に来る。公武合体という政略と望まぬ結婚。武家と公家、嫁と姑という対立関係にあった天璋院と和宮だが、同じ女性として和解していく。
しかし幕府の凋落を止める事ができず、薩摩長州が手を組み、朝廷の方針も転換し、倒幕軍が結成される。天璋院と和宮は実家から裏切られ攻撃を受ける立場になった。政治的に利用し、失敗だと分かると嫁ぎ先を滅ぼしに掛かって来る理不尽さ。天璋院は和宮と共に女の意地を見せ始める。
徹底抗戦を叫ぶ幕臣を説得し、とにかく無抵抗を貫く事で薩長の理不尽さを際立たせようと考えたのか。だが西郷らは慶喜の嘆願書を無視して進軍を続け江戸に迫る。パニックに陥る150万人の江戸の庶民。天璋院の憤りは頂点に達し、西郷への書状となる。
島津は自分を将軍家に嫁がせておきながら、その姫の居る江戸城を攻撃するとは何事か。朝廷も和宮を降嫁までさせながら、その徳川家を滅ぼして良いのか。薩摩も朝廷も、その一部を徳川家に捧げ、自分は望みもせずその一部となったのに、その徳川家を攻撃するのか。では自分は何だったのか。
自分達は絶対に江戸城に残り、その江戸城が攻撃されるなら城と共に死ぬ。それは薩摩も朝廷も、己自身を殺す事に他ならない。なぜなら薩摩と朝廷の一部だった天璋院と和宮が居るからだ。「私を殺す覚悟で攻撃しなさい」とはこういう意味なのだろう。
これだけの決意を突き付けられた西郷は進撃を停止するしかない。もちろん、民衆の支持が得られず騒動が多発していたとか、江戸での戦闘が長引けば欧米列強の介入を招くなどの判断も大きかった。だが天璋院の出した人間の尊厳やアイデンティティーへの問い掛けに、攻撃はその答えとならなかったのも確かだろう。
その後も天璋院は島津家の支援を断固拒否し生活する。滅んだも同然の徳川家の人間として生き、その悲惨さを身をもって表現するかのような困窮の生活を送る。死ぬまで実家へ抗議し続けたとしか思えないような晩年。薩長の世の影でひっそりと亡くなっていった。
天璋院は嫁いで徳川家の人間として江戸を救った形となったが、実は薩摩人としての拘りが強かったのではないだろうか。その行動の底流には常に、薩摩人がここまでしているのだという意識が働いている。将軍正室として大奥で工作したのも、和宮と和解したのも、嘆願書を出したのも、薩摩出身の自分だからこそを体現している。
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参考記事:その時歴史が動いた:天英院煕子
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天璋院篤姫(上)、(下)
和宮御降嫁
大奥の奥
徳川将軍家の結婚
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【あらすじ】瀬戸内海の芸予諸島を拠点とした村上氏は、村上武吉が跡目を継いだ頃から内紛が起きていた。武吉は一族をより強固な集団にするため海賊を辞め、船団を護衛し通行料を取り始める。また、合図で船団を動かすよう訓練し、砲禄という遠投爆弾を戦闘時に使う「水軍」へと進化させた。
陸の陶晴賢が通行料の徴収権独占を狙うと武吉は毛利元就と同盟し、陶の船団を焼き払い晴賢を自害へと追いこんだ。織田信長が瀬戸内・中国進出のため大坂の石山本願寺を攻めると、毛利軍に協力し信長の水軍を殲滅。天正4(1576)年7月13日に海路補給を果たす。だが天正6(1578)年11月の鉄船との戦いでは惨敗し、一族からは寝返りも出た(その時歴史が動いた:信長の巨大鉄船)。
豊臣秀吉が毛利を取り込み四国九州も落ちると村上水軍は孤立。天正15(1587)年には海賊禁止令が出され、武吉は九州に逼塞。息子たちは朝鮮出兵に動員された。秀吉の死後、毛利輝元が西軍の総大将になると再び毛利方につき、東軍背後の伊勢や知多半島の城を攻撃した。
四国九州の東軍補給路を経つため武吉の本隊は伊予に出撃。しかし慶長5(1600)年9月16日、松前城を降伏させたその夜、降伏した軍の夜襲に遭い敗走。武吉の息子も戦死。その前日には関ヶ原で東軍が勝利しており、徳川幕府になると船の建造は制限された。村上武吉は1604年に死去、その子孫は朝鮮通信史の警護を務めた。
【感想】△
海賊から水軍へと変貌し、毛利に味方して一万石の海の大名となった村上武吉。信長・秀吉・家康すべてと戦った稀有な武将。強まる陸の支配から海の復活を賭けて戦うが、敢え無くその夢は潰えた。
「海の関ヶ原」とサブタイトルにあるから、てっきり関ヶ原の戦いは陸だけでなく海でもあり、知られざる海戦でもあるのかと思ったが、水軍が陸地で騙し討ちされて負けたというものだった。番組ではなぜか夜襲した武将の名を伏せていたが、そんな名もない武将の一捻りで壊滅してしまったという事なのだろう(調べたら松前城は加藤嘉明領で、夜襲したのは家臣の佃十成なのだそうだ)。
「潮の流れを理解し、敵味方の位置を知って正確に舟を操れば、我々は決して負けることはない」
との武吉の戦訓も陸地では通用しなかったという事か。
瀬戸内海の難所:芸予諸島を拠点としている事が村上水軍の何よりの強みだった。地政学的に重要な部分を持つ村上氏だったが、それが弱みでもあったのではないだろうか。狭い海域の難所は、陸地が近い・陸の影響を受けやすいという事でもある。
村上水軍は瀬戸内の要を押さえているから栄えた一方、その繁栄は所詮は陸と陸の間の瀬戸内海だからこそであり、それを越える事は出来ない。陸の勢力が戦国の世で群雄割拠していたからこそ、間隙を縫って村上氏も存続できたのであり、陸が天下統一されてしまえば村上武吉が目指した海の独立など泡と消える。
よって、村上武吉が緩やかな支配で勢力を保つ毛利氏と結びついたのは必然的ともいえる。毛利氏と組んだ事で村上氏は最盛期を迎えるが、その後の歴史は毛利氏の盛衰と同じくしていく印象だ。結局は毛利氏の水軍部隊でしかなかったのかと思わせるほどに。対信長の尖兵として使われ、秀吉と毛利が講和すると没落し、関ヶ原で復活を賭けて戦い敗れた。
その「海の関ヶ原」も、そもそも毛利輝元にどれほど天下取りの意志があったか怪しい状況では、武吉の行動も小さく思えてしまう。瀬戸内海でしか勢力を保てない村上水軍と天下を目指さない毛利では、本気で天下取りをしてくる家康に負けるのは自明の理だったのかも。
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瀬戸内の海賊―村上武吉の戦い
秀吉と武吉(城山三郎 著)
村上武吉―毛利を支えた水軍大将
戦国水軍と村上一族
村上水軍興亡史
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【あらすじ】大蔵省官僚:下村治は終戦直後のヤミ市価格調査で、インフレの中でも懸命に生きようとしている日本人に希望を見出した。この頃、国は戦前の国債の償還で財政難にあり、政策を打ち出せずにいた。昭和25(1950)年からの特需景気で一息つくも、昭和30年代に入ると成長は見込めないとして、政府・日銀は緊縮財政をとろうとしていた。
しかし下村は、需要ではなく供給が成長の起爆剤だと考え「経済変動の乗数理論」を発表。技術革新で需要が生まれ、様々な分野で同時多発すれば+でなく×で経済は成長するとした。そのために減税と金利引下げが必要で、勤勉さと工夫を併せ持つ日本人ならば、GNP上昇は毎年1兆円以上、成長率11%を達成できると試算した。
だが経済の専門家らは、特需が終わっているのに投資を促せば、在庫が膨らみ不況を招くと下村主張を一蹴。ところがこの下村主張に着目したのが、数少ない経済成長論者の池田勇人だった。昭和35(1960)年、安保闘争後に誕生した池田内閣は「下村プラン」を採用。10年間で所得を倍増させ、農業と非農業、大企業と中小企業の格差是正をも視野に入れた「国民所得倍増計画」を公約した。
昭和36年から政府は減税と金利引下げを実施、貿易自由化で海外との競争を開始させるアメとムチで企業投資を促した。特に家電分野で技術革新が起こり、テレビ・冷蔵庫・洗濯機の三種の神器が登場。新製品が国民の需要を加速させ、経済は急成長しだした。団地での洋風生活、農村からの金の卵が働き手となり、格差解消へも向かった。
昭和39(1964)年の東京オリンピックでさらに成長したが、池田勇人が病死、公害、農村の後継者不足など問題も浮上、そして昭和40年には景気も失速し不況が到来した。金利引下げも効果なく、政府は予算を使い切り、下村は批判の矢面に立たされた。
そこで下村は6月22日の景気討論会で赤字国債の発行を提案。7月27日の国債発行で市場は政府の成長路線を評価し株価は上昇。不況も脱出し、所得倍増は計画7年目で達成。その後もいざなぎ景気が続き、GNPは世界第二位となった。
昭和45(1970)年の大阪万博以降、下村は低成長時代の到来を予見。経済ではなく文化・芸術・教養に注力すべしと主張し「変節したエコノミスト」と評された。それでもマネーゲームでは何も生まず、いつか破裂すると言い続け、平成元(1989)6月に78歳で死去。その直後、バブル経済は崩壊した。
【感想】○
戦後日本の急激な経済成長の裏には、下村の成長理論と池田の実施した計画があったというもの。緊縮に向かう風潮の中で、全く逆の発想をした下村と、それを実施させた池田の賭けにも近い決断。これが大当たりして高度経済成長を遂げた日本だが、社会には新たな歪みを生み、財政政策でも神話を残した。この幻想(赤字国債で成長)に現在の日本は囚われ、破綻しようとしている。
よく言われる「朝鮮特需で日本は復興し先進国になった」というのはやっぱり間違いで、特需後の落ち込んだ状態での政策、つまり所得倍増計画こそが高度成長を生み出したのだとはっきり分かった。単発の特需があれだけの長期的成長を生むはずはなく、10年先まで見越した所得倍増計画が戦後日本の経済を決定付けたといえる。
下村プランの独自性は、政府の計画でありながら民間企業の力を促進させる事に重点を置いていた所だろうか。そのために政府は減税と金利引下げで当面は身を削り、企業の成長によって後から国家収入を得ようとした。さらに企業の成長の原点として、ものづくりとそれを支える労働力の確保を急がせた。日本人なら可能だと考えた下村の出発点もポイント。
単に欧米の技術革新の導入なら日本以外でも出来るが、東洋の奇跡と呼ばれるほど成功したのは日本だけだった。地政学・軍事バランスなどの要因もあるが、下村の着眼点である日本人の性質が最も大きい成功要因なのだろう。
欧米からの技術の導入と農村からの大量な労働力の流入。これによって生み出された製品の輸出で日本は海外と肩を並べていく。一方、国内には欧米型ライフスタイルを取り入れ、日本社会は劇的に変わっていった。
所得は倍増したが物価も倍増して生活水準が上がったとは言えない、といった指摘もあるが、それではどうして三種の神器を皆が持てたのか説明がつかない。それは多くの人がローンを組んで購入したからであり、ローンを組むには持続的な成長があればこそ。やはり所得倍増計画という長期的な右肩上がりの成長戦略が個々の家庭に好影響したからだろう。
下村と池田は大きな賭けに出たが、下村理論は確かな試算に基づいており、それを信じた池田の迷いのない政策を市場も好感したのだろう。だがあまりにも急激な成長は副作用も生み、工場からの公害、農村衰退、さらに日本人の性質まで変えてしまった。
下村はこの変化を恐れたのだろう。文化・芸術・教養に力を注げとの警鐘は、日本人本来の勤勉・創意工夫などの精神が失われてしまっては元も子もない、との危機感から言わせたと思われる。金融投資に走る日本を憂い、バブル崩壊を予見しながら下村はこの世を去った。
経済人達は、この下村の危機意識を嘲笑し「変節」と片付けてしまった。所得倍増計画での成功は神話レベルに引き上げられ、最後の手段であったはずの赤字国債を常套手段にした。それによって成長する・もしくは成長を下支えするとの観念から抜け出せず、ものづくりは「ハコものづくり」になった。
日本人の意識は浮付き、企業はマネーゲームに興じ、政府は赤字でもハコばかり。下村理論の前提が崩れた今、同じ事をやっても意味が無くなっている。でもそれに代わる政策を打ち出せない。文化・芸術・教養に手が回らず、対処療法で手一杯なのが今の日本。下村に学ぶ所は大きいが、下村を忘れ去るのも必要かも。
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危機の宰相(沢木耕太郎 著)
高度成長の時代―現代日本経済史ノート
池田勇人とその時代
高度成長と日本人1 個人篇
高度成長と日本人2 家庭篇
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【あらすじ】天文17(1548)年、病弱な兄から19歳で家督を譲られた長尾景虎(上杉謙信)は越後の守護代として、電撃的攻撃と統率力のある軍事的才能に溢れたカリスマ性を発揮していく。連戦連勝の一方、仏教に帰依して殺生戒とのジレンマを抱えた。平和な越後を実現するため、肌着や夏服に使われる「青そ」の生産を奨励し、自ら京に出向いて販路拡大に尽力した。
商業の発達で越後は豊かになり争いは無くなったが、武田が信濃そして越後を狙ってくる。謙信は仏を守る四天王の一人である毘沙門天と自らを重ね、正義を守る事を自分の使命とする。戦で勝っても領土を広げず、私欲で戦わない男との評判を得て室町幕府から永禄4(1561)年に関東管領に任じられた。
武田を当面の敵とする織田信長は謙信に近づき、元亀3(1572)年に同盟。謙信は信長の「幕府を守る」との言葉を信じた。信長は浅井・朝倉を滅ぼしても謙信には贈り物攻勢で敵対の意思を示さず、足利将軍邸に向かう謙信の姿を描いた洛中洛外図屏風も贈った。
だが鉄砲を大量に導入した信長は武田を破り、足利義昭を追放。謙信と親交のある村上・佐竹・小山らの離反を促す。ついに謙信は信長の真意を知り、足利義昭の命に応えて石山本願寺・毛利家と同盟し、瞬く間に反信長包囲網を形成した。天正4(1576)年に毛利水軍が織田水軍を破って本願寺への補給を果たすや、謙信も呼応し越中を平定。能登の七尾城に迫った謙信軍に信長は4万の軍勢を差し向けた。
天正5(1577)年9月23日、七尾城を陥落させた謙信軍は手取川を渡った信長軍と対峙。鉄砲の威力を封じるため夜襲を敢行。味方同士の合言葉を徹底し統制のとれた謙信軍は信長軍を正確に攻撃、折からの雨もあって鉄砲は無力化し、敗走する信長軍は手取川の濁流に消えていった。
「戦ってみると信長は案外弱い」
天正6(1578)年、上洛に備えて6万の軍勢を動員した謙信だったが、出陣直前に脳卒中で倒れ49年の生涯を終えた。
【感想】○
私利私欲でなく義のために戦い続けた男:上杉謙信。織田信長とは全くの対極にあり、だからこそ信長は謙信を恐れた。二人が唯一戦った手取川の戦いでは謙信が圧勝。信長は絶体絶命の窮地に陥った。だが謙信は急死し、信長包囲網は崩れて信長の時代となった…という話。
誰もが天下を狙う戦国時代にあって、負け知らずの強さを誇るのに領土を拡張しない謙信は、信長以外にも理解不能な人物であっただろう。異端でありながら最強という存在は「触らぬ神に祟り無し」。信長が可能な限り謙信と事を構えずに済まそうとしたのも当然か。
番組では謙信が私利私欲の領土拡張に走らなかった理由の一つに、「青そ」の生産による商業発達を挙げていた。他国の領土を奪わずとも自国が豊かになれば戦をせずに済む。これで殺生戒の仏教に帰依した謙信の姿勢も理解できる。
ただ、自ら戦をせずとも他国の攻勢は防げないわけで、武田信玄との川中島の戦いは5度に及んだ。この苦しみを救ったのが毘沙門天であり、謙信は自らを重ね合わせて戦い続けた。「天下の乱逆を討ち平らげる。この志が駄目なら病死を与えよ」と考え、義のために戦う決意を示した。この姿勢が幕府からの信頼と関東管領の職を得る事に繋がった。
謙信は室町幕府という現在の秩序維持を毘沙門天の力で為そうとした。乱逆者に仏罰を与えるため遠征を何度も行った。関東での北条の勢いを止め、武田も食い止めた。だが足利義昭を擁していた信長は幕府も謙信も裏切った。
信長は義による仏罰などは信じず、鉄砲という道具を利用した。謙信VS信長はある意味、宗教と科学の対決にも思えてくる。人知を超えた軍事的才能を持ち、仏の力を信じている謙信と、軍事力を鉄砲によって増大させ、神仏を信じず神をも超えようとした信長。その勝敗やいかに。
手取川の戦いは、極めて冷静に相手の弱点を突いた謙信の勝利だった。仏を信じていてもその行動は神頼みではなく、合言葉や夜襲・地形利用といった地に足の着いた戦法だった。毘沙門天はいわばシンボルであり、実戦においては人間臭い作戦が勝利を呼んだ。その結果を毘沙門天の力と言わせ、恐怖を与える心理的効果は大いにあったが。
謙信は毘沙門天ではなく、やはり人間だった。義のためと心で思ってはいても、信長への恨みがあった。これは一つの私利私欲ではないだろうか。ここで初めて謙信は私怨という禁を犯した。さらに自ら戦の準備を始めた。それによって「病死を与えよ」との誓いどおりに死を招いてしまったのでは。むろん、神仏をないがしろにした信長の最期はご存知のとおりとして。
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上杉謙信―信長も畏怖した戦国最強の義将
戦国関東三国志―上杉謙信、武田信玄、北条氏康の激闘
上杉謙信(吉川英治 著)
武田信玄と上杉謙信―決戦!川中島の戦い
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【あらすじ】富山県婦中町では大正時代から中高年女性を中心に骨が脆くなる奇病が多発していた。医師:荻野昇は神通川上流の三井金属神岡鉱業所の廃水が原因と推測。患者の骨にはカドミウムが含まれており、それは亜鉛加工で出るものだった。昭和36(1961)年11月、荻野はイタイイタイ病の研究発表を行うが他の学者から無視された。
この発表を知った農家:小松義久は「米が売れなくなる」「嫁が来なくなる」との強い地元の声を説得し、対策協議会を結成。昭和42(1967)年に鉱業所へ直接交渉に出向くが、「公の機関が三井に責任があると言うなら補償する」と言われた。この件を知った弁護士:島村樹を始めとする20人の若手弁護士が無報酬で協力を申し出る。
昭和43(1968)年1月6日、イタイイタイ病訴訟弁護団が結成され、裁判を起こす事になったが、民法709条での過失の立証には膨大なデータと予算が必要だった。これを鉱業法109条を用いて因果関係のみに絞って提訴。三井側は全面否認し現場検証が行われた。やがて裁判費用は底を尽いたが、訴訟救助で支払いを猶予してもらい、町村議会も訴訟支援の助成金を出した。
昭和45(1970)年に入り、最高裁の全国民事裁判会同で、公害裁判では加害企業に立証責任を負わせるべきとの見解が示され、三井側が裁判引き伸ばしのため求めていた科学的第三者鑑定は却下。昭和46(1971)年6月30日、原告勝訴の判決。因果関係の立証には必ずしも科学的証明は必要無いとする画期的な判決だった。この後、新潟水俣病・四日市ぜんそく・熊本水俣病などでも勝訴が続いた。
【感想】○
風土病とされてきたイタイイタイ病の裁判闘争に立ち上がった医師・農民・弁護士。大企業相手に勝訴は無理とされてきた公害裁判で、住民が勝利を掴むまでを描く。小さな活動から次第に支援の輪が広がり、世論を動かし、裁判所の姿勢を変えさせ、公害裁判の在り方を決定付けた。
題材が題材なだけに、これを見て低評価など下せない。語弊があるが「ズルい」内容ではある。ただ、公正を旨とするNHKらしく、住民が絶対善で企業が絶対悪という勧善懲悪はなるべく控えていた。
「三井金属神岡鉱業所」という名前は字幕で出すだけで読み上げない。三井側の主張はこれまでの公害裁判(足尾鉱毒など)での企業のやり口と同じだった点を強調。それは裁判所に立証責任に関しての指針が確立していなかったからだ、とする解説者(原告の弁護副団長)のコメントも差し込んだ。
住民側にも、米や嫁の心配の声や、原告団に対する冷たい視線、敗北したら土地を出ていかなくてはいけないとまで思わせた地域社会を描く。そして裁判後は、三井側が廃水対策を住民と共に行っている事、土地の復元事業にも参加している事を伝えた。
これらを企業側への配慮のバランスで切れ味が良くない、と見るかどうかは視聴者次第だが、こういったバランス感覚は、センセーショナルに善悪を決めてかかる民放ではなかなか発揮できないのでは。
逆に、こうして住民・企業・裁判所のそれぞれの問題点を指摘してくれた方が、事の本質が浮き上がったりする。今回はイタイイタイ病に苦しむ患者の声であり、将来の子孫のためという願いが原点だと理解できた。
住民の実利から来る泣き寝入りの過去、企業の過去の勝訴と利益優先行動、裁判所の公正さの考えと私人VS企業の判例の少なさ。これらのしがらみを解き放ったのは、住民の悲痛な叫びであり、弁護士の若さゆえの純粋な行動だった。
誰もが何となく、公害の原因は直感で分かる。だから世論も被害者に味方する。それが町村議会を動かし、裁判所の指針も変更させ、無限の科学論争に持ち込ませる事を阻止した。番組後半の動きは原告側が問題点を次々にクリアしていったように見えたが、そこまでの道のりは遠い。
荻野昇の発表から協議会結成まで5年以上かかっている。この間に一軒一軒説得に回った小松義久の苦労は並大抵のものではない。しかも5年かかっても30人しか賛同者を得られていないのだ。どれだけの人が泣き寝入りして(させられて)死んでいったことか。
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イタイイタイ病の記憶
イタイイタイ病―発生源対策22年のあゆみ
三井資本とイタイイタイ病
ドキュメント 隠された公害―イタイイタイ病を追って
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【あらすじ】天正3(1575)年、30歳の黒田官兵衛は播磨領主:小寺氏に仕えていた。毛利と織田の勢力に挟まれる中、「信長が天下を獲る」と確信し小寺氏を織田方につかせ、秀吉と出会ってからは毛利方諸将の切り崩しに奔走。しかし天正6(1578)年に小寺氏が毛利に寝返り、官兵衛は有岡城に幽閉される。織田軍に解放されるまでの1年間、毛利方につく事を拒み続けた。
秀吉直属の家臣となった官兵衛は中国地方の討伐に参加。だが天正10(1582)年6月3日、本能寺の変の知らせを受ける。動転する秀吉に官兵衛は
「御運が廻って参りましたな。天下をお取りなさいませ」
と進言。中国大返しを実現し山崎の戦いで明智光秀を討ち破った。天正14(1586)年の九州討伐では戦場を駆け回る息子:長政を諌めつつ、自身は諜略によって平定のお膳立てをした。
だが、あまりの才気に秀吉は次第に官兵衛を遠ざけ、豊前18万石しか与えなかった。秀吉から疑われている事を知った官兵衛は「心清きこと水の如し」如水と名を改め隠居する。そして秀吉の死後、徳川家康と石田三成の対立が深刻になると、如水は情報収集を開始。天下を狙った構想を練り出す。
「こういう時こそ絶好の機会が来る」
黒田如水の三段作戦は、九州の諸大名が出兵した隙に九州を平定する第一段階、兵力を増やしつつ中国地方を攻め上る第二段階、戦いで疲弊した家康・三成の勝者(如水は家康勝利と予想)と最終決戦で勝利する第三段階から成っていた。この作戦の条件は、家康と三成の戦いが100日以上の長期戦となる事だった。
「花々しく一合戦つかまつる」
まず如水は天下獲りを悟られぬため、長政軍5400を家康の東軍に参加させ、残った兵力の増強のため、蓄財を叩いて農民を召抱え、9000の軍を結成。
「我と共に天下を頂こう」
慶長5(1600)9月9日、豊後に攻め入り、大友軍を降伏・吸収させた。立石・安岐・富来へと進撃する如水軍に関ヶ原の戦況報告が入る。なんと決戦は半日で家康が勝ち、その勝因となった小早川秀秋の寝返り工作を息子:長政が行ったというのだ。
「長政の大たわけめ。急いで家康を勝たせて何になる」
止む無く如水は、家康の味方のふりをして小倉・久留米・柳川・水俣を攻め続け、10月末には島津以外の九州を平定、如水軍は3万に膨れ上がっていた。だが11月12日に家康から攻撃停止命令が届く。家康は如水の動きに只ならぬものを感じ取ったのだ。
「如水の働きは底心が知れぬ」
如水は遂に時間切れを悟り、兵を引き揚げさせる。
「上方治まりたる上は是非もなし」
ここに黒田如水の天下獲りは未完に終わった。その4年後の慶長9(1604)年、如水は59歳で病死する。
【感想】◎
観ていて単純に面白かった。こんな面白さを感じたのはこの番組では久しぶり。類まれなる智略を持った軍師:黒田官兵衛が、その才気ゆえに疎まれ不遇をかこっていたが、その智略を自分のために使った一世一代の大勝負に出る。だがその野望を意図せずに打ち砕いたのは、自分の才能を受け継いだ息子:長政だったという運命の皮肉。
中途半端な知識の執筆者は、黒田如水が関ヶ原の際に天下獲りに動いた事は知っていたが、九州で戦う事がどうして天下に繋がるのかよく分かっておらず、単に如水は混乱に乗じて隣国をかすめ取って勢力拡大を目論んだ…くらいにしか思ってなかったが、実は壮大な作戦構想があったと知った。
たった18万石の領地で隠居生活を送っていた55歳が、精鋭兵力を息子:長政に出して、農民兵で隣国を攻め始める。それが天下獲りに繋がるなんて信じがたい。そりゃ長政も父の真意に気付かないよ。でも如水は戦国を智略で生き抜いてきて、この混乱ならチャンスがあると踏んだ。そして実際、九州のほとんどを手中にしてしまうのだから恐ろしい。
平時での諜略と混乱での迅速な行動が如水の基本原理で、中国・九州討伐は諜略、中国大返しと天下獲りは迅速な行動。戦いも事前の諜略で勝利が決定づけられてから戦っているので、やはり根本は智略の人といえそう。勇敢に戦うだけの長政を侮っていた。
中国大返しの進言から秀吉は官兵衛を恐れるようになったという。それで18万石しか与えなかったが、そんな境遇にあっても官兵衛の才気は人知を超越しており、三段作戦を練り上げてしまう。中央から遠く離れ、兵力もロクに無いのに瞬く間に九州平定目前までやってのけた行動力。確かに中央に置いていたら脅威だろう。
如水の三段作戦は条件付きの他力本願的な要素もあったが、家康勝利の読みまでは当たっていた。だから関ヶ原以前に西軍領地に攻め入っていたのだし。その勝利の仕方を読み誤った所が致命的で、しかも息子の働きで計算が狂ったというのが哀しすぎる。でも関ヶ原前日まで西軍は大垣での持久戦をやるつもりだったから、そうした情報を掴んでいた如水が読み誤るのも仕方ない。
忘れてはいけないのは石田三成の存在。官兵衛に代わって秀吉お気に入りとなった軍師だが、長政は父:官兵衛失脚が三成のせいだと思っていた。だから三成襲撃もしたし、喜んで東軍に加わって小早川工作も行い、関ヶ原では三成軍を目掛けて怒涛の突進をしている。長政は父に認めてもらいたいがために、父の仇と思しき三成を憎んでいた。これが行動の源泉。
如水は勝利する家康に長政をやった方が生き残ると踏んで送り出した。あくまでも息子にはさしたる働きを期待していなかった。だが長政は父のためを思って打倒三成に死力を尽くした。親子の互いを思う心が招いたちぐはぐな大誤算が浮かび上がってくる。そう推理してしまうのだが。
関ヶ原後も如水は進撃を続け一気に九州を獲得する。これは如水軍の強さというより、事前の準備があったからではないかとも思う。解説者の言う何らかの同盟・連絡網があったからでは。秀吉時代に九州諸大名を諜略した事、キリシタンだった如水への共感など。これらがない限り、戦ってから如水軍に加わって兵力が膨れ上がるという事象を説明しにくい。
恐らく九州だけでなく、如水は中国にもこのような関係を築いていたと思われる。中国諜略も官兵衛が行っていたし、毛利の関ヶ原での不可解な行動ももしや…と。また、三成も捕らえられた際に「再起の機会を窺っていた」と語ったが、これも家康が一度の勝利で天下を獲るとは限らないと思っていたからだろう。つまり家康に立ち向かう勢力はまだ現れると思っていた。それが如水でも伊達正宗でも良かった。
全ては関ヶ原が半日で決してしまったから、これら各勢力は手出しが出来なかったわけだが、如水もやがてこの現実に気付く。九州を迅速に制圧できたのは、自分の力というよりも、関ヶ原で家康が圧勝したからではないか。表向きは東軍の自分に味方が増えるのは勝ち馬に乗っているだけで、本当に家康と決戦をする事になったら如水軍など消えて無くなるのではと。
自分の好調な進撃は、所詮は家康がもたらしたものであり、その勝因は息子:長政によるものだった。如水の天下獲りへの智略は家康の掌中での動きに過ぎなかった。ここでやっと悟った如水は何事も無かったかのように兵を引き揚げたのだ。
晩年のエピソードは如水の生き方と長政への思いが溢れている。家臣を罵るのは、自分が嫌われ者になって長政の世にしやすくするためだと長政に囁く。床に臥せる如水が最後に出来た智略は、息子への愛が込められていた。長政は父からやっと認められたのである。
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【あらすじ】明治初期、欧米を視察した使節団は、文明繁栄の秘密は鉄にあるとし、伊藤博文は明治7(1874)年に鉄の国産化計画を提出。明治13(1880)年には官営釜石製鉄所が完成するが、2年後には閉鎖に追い込まれる。政府は再度の製鉄所建設のための委員会を設けるが、留学中に近代製鉄を学んだ教授:野呂景義はまず釜石の失敗を究明すべきと主張。
野呂は釜石に足を運び、原料調査不充分と設備・技術の輸入が失敗要因だと突き止める。新高炉は小規模導入で漸次拡大の方針を打ち出すが、政府は明治34(1901)年2月に官営八幡製鉄所を大量生産を前提に完成させた。野呂は去り、その弟子達が操業に当たる。しかし11月の作業開始式で鉄は出来ず、出席の議員や大臣は茫然となった。
その後も銑鉄は計画の10%しか出来ず、明治35(1902)年7月には作業中止命令も下る。弟子達は野呂を迎え入れ、野呂は失敗の原因究明に乗り出す。野呂は細かい国産コークスに合ったノズルに改修し、高炉全体に熱風が通るようにした。これで生産量は日を追って増大、国産の鉄道レール生産が本格化する。
だがそのレール破損が相次ぎ、児玉晋匡は破損現場を歩く。寒冷地で破損が多く、英国製は破損しないと分かり、英国製と八幡製を比べた結果、不純物が原因と判明。昭和4(1929)年に八幡製鉄所は不純物を減らした新レール規格を作り上げた。昭和5(1930)年には鉄道レールの完全国産化を実現。日本の技術立国の礎となった。
【感想】○
鉄の生産によって貧乏国から近代国家となった英国を見て、同じ島国日本でも鉄を作ろうとした明治政府。だが急ぐあまりに釜石製鉄所は失敗し、大量生産を目論んでの八幡製鉄所も失敗寸前に。それを救ったのが現場で学んだ野呂景義だった。鉄道レールの改良はその弟子達が成し遂げた。完全国産化に成功したものの、その技術は満鉄や戦車・砲弾にも転用された歴史を持つ。
1960年代の鉄鋼業界を描いたTBSドラマ「華麗なる一族」の好調さにあやかっての放送だとは分かりきった事。鉄鋼で何かないかと探したら八幡製鉄所があり、野呂という人物が浮かび上がったと。でも野呂は途中で死んでいる(大正14年)から野呂イズムの伝達で繋げて「その時」まで持たせようと。でもでも鉄全体の国産化はできていない。だから鉄道レールの国産化に絞って「その時」にした。
…そんなうがった見方をしても仕様がないので、番組の運び方で評価して見ると、「成功は失敗から学ぶ」「現場を見て歩く」という野呂イズムが弟子達に受け継がれ、鉄という物の技術確立と、技術者という人の養成ができたからこそ、レール国産化ができたのだと筋道が立っていた。
釜石の失敗から学ばず八幡を作ろうとする政府に盾突く野呂。委員会を去り案の定、八幡は失敗寸前になる。釜石は急いでとにかく何でもいいから導入して失敗した面があったが、八幡はさらに、大規模に作ってしまったぶん性質が悪い。ここでの野呂の迎え入れと政府の対応などに興味を引かれるが、番組では説明されず。
ともあれ野呂は自分のやり方を変えずに原因究明を優先し、改修に成功する。鉄道レールの破損では野呂のやり方通りに弟子の児玉が実践し、原因を突き止め、独自の改良を加えて国産化に成功する。
野呂が最初に釜石で指摘した原料の不充分な調査は、後の鉄道レールの不純物に繋がるものがあり、設備の輸入(借り物)というのは、国産コークスに合った高炉ノズルでなかった事に繋がる。野呂の釜石調査が活かされていればその時はもっと早かったかもしれない。
この八幡製鉄所の技術があったからこそ、満鉄や戦車・砲弾で中国に侵攻していった日本。そしてあまり知られていないが、マリアナ諸島からの本土空襲より早く、八幡製鉄所はB-29の空襲を受けている。そのB-29の発進基地は中国の奥地からだった。米軍は何よりもまず、八幡製鉄所の破壊を目指したのだ。この辺も歴史のダイナミズムと言うべきか。
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