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【あらすじ】伊達政宗は18歳で家督を継ぐや、僅か5年で114万石の東北の覇者となった。だが天下の趨勢は豊臣秀吉にあり、天正17(1589)年の小田原攻めの翌年に秀吉に屈し、国替えで58万石。それでも鉱山開発を進めた政宗は経済力を付け、再び天下を視野に入れる。鉱山の技術者はキリシタンで宣教師だった。
慶長5(1600)年の関ヶ原以降、徳川の世となったが政宗は仙台城を築き、南の防衛も固めた。政宗を恐れた家康は江戸城などの普請を次々と命じ、伊達家の経済力を奪っていった。海外交易に活路を見出そうとした政宗は、慶長18(1613)年にサン・ファン・バウティスタ号を建造し、支倉常長をスペインに送り出した。
太平洋を渡りメキシコ経由でスペインに着いた常長は、1615(慶長20)年に国王フェリペ3世に謁見。自由貿易と布教歓迎の意を示し、政宗の領地をスペインに差し出すとまで申し出たが交渉は進まなかった。ローマからの支持も取り付けようとローマ教皇との謁見も果たすが色よい返事を得られなかった。
元和2(1616)年に家康が倒れ、政宗に謀反の疑いが掛けられる中、常長は元和6(1620)年8月24日に帰国。交渉の失敗を報告し、政宗はその日の内に領内でのキリシタン禁止に踏み切った。以降、幕府によるキリシタン禁止、大型船建造禁止、海外渡航禁止、外国貿易の幕府管理などの鎖国政策が強化されていく。
【感想】△
秀吉・家康に面従腹背で天下を狙い続けた伊達政宗の、最後の望みだった慶長遣欧使節団。その目的はスペインとの貿易だけでなくキリシタン勢力との連携にあった…という話。キリシタンとの繋がりを重視したために政宗の野望が中心に来て、使節団の模様が薄まり、どっちつかずになった印象。
鉱山開発や製鉄の技術をキリシタンが持っていて、それを重宝した政宗がキリシタンに保護的な姿勢でいた事、スペインとの交易でもキリシタンへの理解を最大限に示していた事は分かった。だがあくまでもキリシタンの持っている技術が政宗にとって第一で、スペインへの領土献上やキリスト国家の建国などは本音ではなかったのでは。
番組内では宣教師ルイス・ソテロがスペインに宛てた手紙の、「政宗は、迫害を受けている日本の30万人のキリシタンの力を得て幕府を倒し、みずから皇帝となって帝国を築こうとしている」との部分を強調していた。しかしこれも、ソテロがスペイン国王に取り入ろうとした言説に思えてならない。
解説者:平川新教授も、「これが事実だとしたら政宗の大胆な考え」と述べ、キリシタン重視に傾く番組のスタンスに一定の歯止めを掛けていた。学者の言う「事実ならば」との条件付きは、はっきり言ってその可能性に否定的という事。
スペイン国王の下には幕府によるキリシタン迫害情報がもたらされており、遠い日本での布教に利益が少ない事が分かっていたために支倉常長の使節団は厄介者扱いされた。同時に、伊達が徳川を倒せるほどの勢力でないとも思われていたのでは。
色よい返事をしなかったスペイン・ローマだが、その時歴史が動いた:島原の乱では支援するかのような手紙も出している。だが実際には何の援軍も出さなかった。南蛮人の手紙と実際の考え・行動には大きな差がある。ソテロの手紙も同様に大口を叩いただけと見るのが妥当だろう。
そんな文化の国だからこそ、支倉常長の領土献上演説も話半分であしらわれたのだろう。そして政宗や常長も、どこまで本気だったか怪しい所がある。天下さえ取れば方針転換などいくらでも出来る。秀吉も家康もそうしてキリシタン禁止を強化していったのだし。
明治より250年も前に自国の大型船で太平洋を渡り、欧州まで行って帰ってきた偉業には信じがたいものがあり、個人的には支倉常長の使節団の苦難の旅路や、欧州での生活ぶりなどを知りたかったのだが、そこまで網羅されず残念。
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図説 伊達政宗
史伝 伊達政宗
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