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【あらすじ】文化7(1810)年に武士の子として生まれた緒方洪庵は、8歳で天然痘を患い、一命を取り留めたものの体が弱く、武士に適さないと悟って17歳で家を出て蘭学・西洋医学を学ぶ。天保9(1838)年に大坂で蘭学を教える適塾を開き、医師としても活動を開始。
当時流行していた天然痘の予防は、人から摘出したワクチンを人に打つ人痘法。だが本格感染のリスクがあり、緒方洪庵もこれで死者を出してしまった。嘉永2(1849)年に牛からの牛痘ウイルスを摘出した牛痘ワクチンが日本に入り、洪庵は分苗式でワクチンを分けてもらい、除痘館を設けて予防の実践に入る。
しかし「牛のワクチンを打つと牛になる」との風説で人は来ず、資金繰りも苦しくなり、7日ごとに人から人へ植え継ぐワクチンも枯渇。仲間の医師も去っていく中、洪庵は地方の医師に分苗を進め、全国に186ヶ所のネットワークを築いた。
だが牛痘ワクチンと称して得体の知れない物を投与する詐欺が相次ぎ、洪庵は除痘館を幕府公認にしてもらうよう何十回も申請。ようやく安政5(1858)年4月24日、洪庵の予防活動は幕府公認となり、除痘館以外での種痘は禁じられた。5月には江戸でも種痘所が開設され天然痘の予防が本格化した。
【感想】○
福澤諭吉、大村益次郎、佐野常民らを生み出した適塾の開設者で天然痘の予防活動に尽力した緒方洪庵。彼が闘ったのは高い致死率の天然痘だけでなく、人々の風説による偏見や偽物の横行する世の中だった。
現在でもワクチンの効果は5〜10年経たないと分からないため、その有効性を説くのは中々難しいとの解説があり、江戸時代の洪庵の活動がもっと困難なものであった事は容易に想像がつく。
自身も天然痘に罹り、そこから天然痘予防に心血を注いでいく原点があり、その信念が揺らがなかったからこそ、資金難や仲間の離脱にも耐え、幕府公認まで取り付けたというのは分かりやすい。善人の良い話に終始しがちだが、人痘法で死者を出した汚点を挟み込んで人物像に深みも出している。
人痘法より安全な牛痘ワクチンの牛痘法だが、これは人の腕で培養しても7日しか効力を持たない。だから人から人へ植え継いでワクチンを維持する必要がある。この仕組みが洪庵と他の医師、培養者の信頼関係と不可分であるのが興味深い。分苗によるネットワークも地道に広げていった洪庵。
対して、ワクチンの有効性を失わせた風説・悪説や詐欺の横行による種痘への不信も、人から人への伝聞という負の情報ネットワークのなせる業であり、信頼と不信という人と人との良い面・悪い面が示されていて、言葉は悪いが面白い。
幕府公認は、権威付けされた事よりも非公認の種痘が禁じられた事が重要か。今回のその時はペリー来航の後の事であり、辛うじて幕府の権威が維持されていたギリギリで間に合った感じもする。その後の幕末で活躍した人物が、洪庵の適塾から輩出されたのも少し皮肉。洪庵には倒幕の意図はなかったようだが。
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緒方洪庵と大坂の除痘館
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