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【あらすじ】外交官だった重光葵(しげみつ まもる)は昭和6(1931)年の満州事変、翌年の上海事変を外交交渉で解決しようとする。停戦交渉をまとめた4月、爆弾テロによって重傷を負いながらも停戦協定に著名。だが国際連盟では昭和8(1933)年、日本に対し満州事変について勧告がなされ、不服とした日本は脱退。
太平洋戦争中、外相となった重光は昭和18(1943)年11月に大東亜会議を開き、アジアの独立と武力によらない協調を決議。終戦時の日本の全権大使として戦艦ミズーリ号において降伏文書に調印。戦後はA級戦犯として禁固7年の判決を受けた。1945年に国際連合が誕生し、昭和26(1952)年にサンフランシスコ講和条約を締結した日本は国連加盟を目標とする。
昭和25(1951)年に仮釈放された重光は政界に復帰し、昭和29(1954)年に鳩山内閣の外相へ。冷戦でソビエトが日本の加盟に拒否権を発動する中、加盟実現に奔走。昭和30(1955)年のバンドン会議でアジアとの協調をはかり、国連に出向いてロビー外交を行うが、4度の加盟申請も拒否された。
そこでソビエトとの関係改善で打開しようと重光は、日ソ国交回復交渉を行うが失敗。鳩山が北方領土問題を棚上げして昭和31(1956)年に日ソ共同宣言と国交回復をまとめた。12月、ポスト鳩山内閣の動きが活発化する中、重光は日本を離れ加盟申請。18日の国連総会において日本の国連加盟が認められた。
重光は議場で「我が国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米およびアジア両文明の融合の産物であって、日本はある意味において『東西のかけ橋』になり得る」と演説。日本では石橋湛山内閣が成立し重光は外相の地位を失い、1ヶ月後の昭和32(1957)年1月に69歳の生涯を終えた。
【感想】◇
戦艦ミズーリ号での降伏文書調印で有名な重光葵の、国連加盟と『東西のかけ橋』演説に懸けた思いを描いた回。自らの政界での地位より日本の加盟を優先した姿と、その直後の死が心を打つが、「東西」の意味する所に疑問も残る。
番組では「東西」を冷戦での東側陣営と西側陣営と解釈していたが、東洋と西洋と解釈するのが通説らしい。確かに「東西」演説の文脈をみても、東洋・西洋と解釈する方がすんなりくる。さらに番組内で紹介された折々の重光の言葉からも、冷戦の東西と解釈するのは厳しい。
重光は常々、欧米(西洋)とアジア(東洋)の観点で発言を続けている。国際連盟脱退時の重光は、アジア・アフリカを植民地とする欧米への憤りを顕わにし、太平洋戦争時の日本についても、アジアを踏み台にするなと怒る。その主張を実現させたのが大東亜会議で、アジアの自主独立を謳った。
大東亜会議は大日本帝国の大義名分を再確認させる意味合いが強く、重光の主張が良い様に取り込まれた感じもする。開戦(というか外交官の視点からするとドイツ・イタリアに続いての「参戦」になる)に反対し和平工作もした重光だったが、結局は無条件降伏の文書に自分が調印する羽目になるとは。しかも、揺れる船上で長いセレモニーと響く祝砲によって、重光本人には失った右脚の痛みが相当あったとか。
東西冷戦(西洋)に対しても重光は、その打開の鍵となるのはアジア(東洋)だと指摘。バンドン会議からアジア・アフリカの支持を取りつけ、国連加盟に期待を寄せるが、安全保障理事会でソビエトに拒否権を連発される。ならばソビエトとの関係改善だと進むが、ここで重光の度量が露呈する。
どうも重光のA級戦犯の判決は、ソビエトの意向が働いたと重光本人は思っていたらしく、日ソ交渉において重光は強硬な姿勢を崩さなかった。ために交渉は失敗し、鳩山が乗り出して日ソ共同宣言、領土問題棚上げでの成立の(裏)条件として日本の国連加盟支持を取りつけた。
この段階で重光の政界での地位は傷付き、もはや国連加盟への日本政府代表としてニューヨークに向かうしかなかった…とも考えられる。番組では、己の政界での動きよりも国連を優先したと取れるように紹介していたが、鳩山が重光に最後に花を持たせてくれたのだろう。
しかし逆に、この動きによって重光は、政界を離れて純粋に外交官として演説の原稿を書けたと言える。外交官として若き日より欧米(西洋)とアジア(東洋)の観点から考えてきた思いを『東西のかけ橋』演説に込めた。私情を捨てた演説だったからこそ、これが名演説として残ったのではないだろうか。
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重光葵―上海事変から国連加盟まで
国際連合―その光と影、―軌跡と展望(明石康 著)
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