テレビ批評的視聴記 - 2007/07/19

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2007年07月19日(Thu)▲ページの先頭へ
その時歴史が動いた:真説・桶狭間の戦い

【あらすじ】今川義元は貴族趣味の軟弱なイメージで語られるが、実は革新的な戦国大名だった。家臣を寄親として領内各地に配置し、農民を寄子として主従関係を強化した。組織化された農民の戦いぶりは天文17(1548)年の小豆坂の戦いで発揮される。織田信秀は整然と陣形を組む今川軍を破れず敗退。義元は翌年の安祥城攻めに鉄砲をいち早く導入した。

信秀の病死で尾張攻めを本格化した義元だったが、息子:織田信長は19歳ながら英才教育を受けた闘志溢れる若武者だった。初陣の信長は野営する今川軍に火を放ち夜通し攻撃を加え撤退させた。信長は義元を手本に組織力強化に乗り出す。父の重臣に代わり、長男でない・身分の低い若者を重用。鉄砲を用いた戦法を研究し、天文22(1553)年には村木城を落とす。

信長の台頭を恐れた義元はかつてない動員をかけ、2万5千の軍勢で尾張攻略を開始。桶狭間山に着陣し、兵力を分割して織田の砦を同時攻撃した。砦は簡単に落ち、今川の兵は乱取(略奪)に散っていった。信長は3千の軍勢で清須から出撃し、桶狭間から3キロ地点で兵を2千に厳選。少数精鋭の能力ある個人の団結力を信じて号令する。
「各々の手柄を考えず、ただ勝つ事だけ考えよ」

永禄3(1560)年5月19日午後2時、義元本陣は突然の信長軍の出現に無抵抗で、一丸となって進む信長軍は義元の漆輿と護衛の300騎と激突。輿から出た42歳の義元は奮戦したものの組み臥せられ首を取られた。その後、信長は義元の首を駿河に送り返し敬意を払った。

【感想】△
今川義元は今までのイメージと違い、軍の組織化・検地・商品流通経済を導入した革新的な武将だった。織田信長は義元を手本に統治し、さらに改良を加えた組織化を進めた。全く異なる組織力の対決が桶狭間の戦いであり、信長は義元にいわば師匠越えを果たしたのだ…というもの。

桶狭間を組織の面から見た回であって、これが真説と言えるのかどうか。信長が義元を手本にしたと説明されていた割には、信長軍の組織力は義元と全く異なるとも説明され、改良という言葉が当てはまらないほどだった。信長と義元は根本的な発想から違うように思えた。

確かに義元が寄親寄子制や検地や鉄砲の導入などで革新的だった事は分かった。でも最期ではやはり公家のような漆輿に乗っており、今までのイメージが全くのデタラメだとも言えない。信長の地道な組織改革の方がイメージとしては違っていたかも。

領内全てを寄親寄子・検地によってあまねく支配し、その国力を底上げしようとした義元。対して、世代交代のために自分の身近な若者の組織化を図った信長。大軍指向と少数精鋭で両者の軍制改革は全く異なり、本当に信長が義元を手本にしたのか疑問が残る。

当時かつてない大軍勢に膨れ上がった今川軍は、数の力で簡単に勝利を重ね、寄子の略奪を止める寄親もおらず、気は緩み油断して散り散りになっていた所を信長に突かれた。大きな組織になったが団結力は乱れた今川軍。

新規に重用した若者を多く含む軍で出撃し、奇襲前にさらに厳選した信長。既存の戦場での戦い方(個々の手柄)を捨てさせ、義元だけを目指して突撃した少数精鋭の団結力。ここの部分の対比は面白かった。

信長の義元への敬意は、師匠への思いから来たものではなく、一人の武将としてあれだけの軍勢を集めた義元の手腕へのものだったのでは。この頃の信長には自分とは異なるものを認める姿勢があったと見るべきか。

全然関係ない話になるが、この時の義元軍2万5千がかつてない大軍といわれたのに、その400年前の源頼朝が富士川の戦いで20万騎も集めたって何なんだ。関ヶ原でも両軍合計18万人なのに。やっぱり平家物語とかは誇張なのかな。
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今川義元(小和田哲男 著)
戦史ドキュメント 桶狭間の戦い
織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで
信長の親衛隊
信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学

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