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【あらすじ】室町時代、本願寺宗主の息子だった蓮如は諸国を布教して回る。しかし親鸞が開祖の浄土真宗はこの頃には衰退しており、蓮如の旅路も貧しいものだった。民衆の暮らしも貧しく宗教にすがる者は多かったが、僧達はその心を利用し金を巻き上げていた。蓮如は本願寺の跡を継ぎ、親鸞の「四海の信心の人は皆兄弟」の言葉を実践しようと決意する。
まず僧侶に正しき行いの指導をし、門徒には「講(こう)」で念仏を唱えさせた。その後の寄合で食事を出し話し合いをさせ、異なる大名の土地同士の民の交流を生み出した。荒くれ者で敬遠されていた堅田衆にも布教するなど、蓮如の浄土宗は広まった。
文明3(1471)年、それを比叡山延暦寺などが脅威と見なし、僧兵によって堅田は焼かれ、蓮如は越前の吉崎に逃れる。親鸞の経典をかな交じりで解読し門徒に配った蓮如はここでも支持を集め、あらゆる職業・階層の人々が集うようになる。中には多数の武士も居たため、大名や寺が警戒し始める。蓮如は悲劇を繰り返さぬよう自制を求めるが、門徒の武士は応仁の乱に加わってしまう。そこで蓮如は吉崎を離れる。
文明10(1478)年、京・山科に辿り着いた蓮如は、本願寺を再建して敬謙な門徒が自治を行う仏法領をつくろうと決意。建設は難航するが大坂の門徒が吉野の山から大木を運ぶなどの協力を得て、文明15(1483)年8月22日に山科本願寺が完成。門徒の自治によりこの町は戦乱の中、50年間も平和を保ち続けた。
蓮如は明応8(1499)年に85歳で入滅。その30年後に山科本願寺は豪族の攻撃で焼け落ちた。さらにその40年後には一向宗への織田信長の徹底攻撃が行われた。
【感想】◇
戦乱の世で苦しむ民衆を救おうと、浄土真宗で極楽浄土に行けると信じさせた蓮如。幅広い層への布教活動を実践したが、そのために権力者から脅威と見なされ、幾度も攻撃を受けた。また門徒達の暴走を止められず失意のうちに居を転々とした。その果てに建設したのが理想郷:山科本願寺だったというもの。
皆兄弟の思想でどんな階層の人々も受け入れたからこそ、独自の生活圏を発展させた一種の国(仏国)を創れたのだろうと思う反面、その中に武士や僧兵が混じっていたために攻撃されたり、過激派を生む事態に発展してしまったのは皮肉な結果だとも思う。何度かの失敗を経て建設した山科本願寺は、土塁で囲んだ少数精鋭の選りすぐりで武装中立的な都市だった。
本願寺宗主の息子という、親鸞の教えを忠実に守れる立場にあった蓮如は、その運命を受け入れ積極的に浄土真宗を発展させていく。諸国の旅で民衆と僧侶の現状を見た蓮如は、仏の前では皆平等であるべきとの意識を強く持ち、念仏・講・寄合で横の関係を築いていく。
それは縦の関係で支配する権力者には目障りな存在でしかなく、武士である自分達の中からも蓮如の下へ走る者が出てくるとあっては脅威と映る。いくら蓮如が自分達からは攻撃しない方針を打ち出しても、自軍から脱する損害が絶えず、蓮如もそれを受け入れているならば、近隣大名にとってこれは一種の攻撃である。
受け入れた武士の過激化に蓮如は苦悩したが、皆兄弟という平等精神とのジレンマで排除もできなかったのだろう。同列に論じるのは少し危険かもしれないが、今のイスラム教も本当は平和な宗教なのに過激派によって凶悪なイメージが浸透している。蓮如の浄土真宗も「念仏さえ唱えれば何でも許される」との曲解によって過激派を生んだ。ジハード(聖戦)を本当に戦争だと解釈するイスラム過激派もこんな感じなのだろう。
結局、蓮如は自らが定めた掟を遵守させる手段を取り、山科本願寺は門徒達に自治を任せたものの、この掟を守れる者だけが生活できる空間だった。それは本当に蓮如が思い描いた理想郷と言える物なのか少々疑問も生じるが、様々な職業の人がいる都市が出来たのは事実であり、その点からは仏の前での平等が証明されているとは思う。
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