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【あらすじ】文久3(1863)年、攘夷論の長州藩は下関を通過する外国船を砲撃。イギリス公使オールコックは米・英・仏・蘭の四ヵ国艦隊の結成を呼び掛ける。イギリスに密航留学していた伊藤博文と井上馨は新聞で四ヵ国艦隊を知り、平和的解決のため帰国。オールコックと面会し時間的猶予を貰い、長州藩への説得を試みたが不調に終わる。
元治元(1864)年、四ヵ国艦隊は横浜を出港。同時期に徳川幕府も長州征伐を決める。長州藩は伊藤と井上を調停役とするが時既に遅く、下関は四ヵ国艦隊の砲撃を受け占領される。一方、高杉晋作らの奇兵隊が長州藩の実権を握り、薩長同盟を結んだ長州は新式銃によって幕府軍に勝利する。慶応3(1867)年10月14日には大政奉還がなされる。
12月7日に開港された神戸には多数の外国人が上陸。9日には王政復古の大号令が発せられ新政府が樹立される。慶応4(1868)年1月11日、神戸三宮神社前で備前藩の隊列を横切ろうとしたフランス水兵に対し、これは「供割」だとして槍で制止した隊士。銃撃戦にまで発展し、列強は安全確保のため神戸沖の艦船から陸戦隊を上陸させ、神戸中心部を占領。軍事統治下に置いた。
伊藤博文は直ちに調停に乗り出し、イギリス公使パークスと面会するが、新政府になった通知もなく、攘夷も抑えられていないと言われ交渉にも入れない。朝廷に取って返し外国事務掛に任命された伊藤は、1月15日に新政府の宣言と開国和親を列強外交官に伝える。しかし伊藤は発砲命令者の処刑を要求する列強と、徹底抗戦の構えを見せる備前藩の間で苦悩する。
伊藤は「万国公法」に則り、備前藩から責任者を差し出させる。列強にも今後の外交問題は万国公法で処理すると伝え、事件は解決する。2月9日、神戸永福寺にて滝善三郎の切腹を外交官の前で行わせた伊藤は
「見届けましたね」と一言。
列強は神戸の占領を解いた。
【感想】◇
明治新政府になっての初の外交問題である神戸事件。交渉の経過によっては下関事件や薩英戦争のような全面的衝突に発展したり、神戸が香港・マカオのような租借地になる恐れもあった。この解決にあたった伊藤博文の決断が新政府の基本方針にもなったというもの。
伊藤の迅速な対処と、その行動を支えた思想が重要な鍵となるため、伊藤の神戸事件までの半生に大きく時間を割いてしまい、肝心の神戸事件はオマケのような扱いになっていた。解決に持ち出した万国公法も、伊藤がそれを知ったきっかけの説明もなく、突飛な感じは否めなかった。
全体としてはやはりこの時代は武力を持つ者が強いという印象。下関事件で圧倒的戦力を持つ四ヵ国艦隊は大勝し、伊藤も加わった奇兵隊は武力で藩の実権を掌握。武器の差で幕府軍に勝つ長州。そして新政府を樹立した矢先、あっという間に神戸を武力占領する列強。
しかし、だからこそ平和的解決で済ませた神戸事件の意味合いが大きくなる。武力を持つ欧米列強と事を構えぬため、不平等な条約を結ばされた徳川幕府。これに対し明治新政府は万国公法に則ると宣言し、欧米列強と対等な立場を強調する。武力ではまだまだ全く敵わない時期であったが、最初の事件でこの姿勢を打ち出したおかげで新政府の軸が定まった。
伊藤に行動力があった事も大きい。その行動の根底には留学の途中で見た上海の光景があったそうだ。戦いに敗れて列強の租界となった上海では、奴隷のように人々が扱われていた。日本もこうなってはいけないとの強い思いが伊藤を動かしていた。
徳川幕府時代の外交交渉では常に引き伸ばし戦術が取られ、それが状況の悪化をもたらした面があるが、新政府での伊藤の対処は実に迅速。ここでは、新政府が発足したばかりで役割分担や人材も不足していた事が、逆に好結果に結びついている。伊藤に全て任せるしかなかった未熟さ(悪く言えば機能不全)が、伊藤の個人プレーが思う存分発揮できる状況となった。
ここで伊藤に賢明な判断力が備わっていた事も幸いしている。攘夷でもなく媚びへつらう開国でもなく、万国公法という国際ルールを持ち出した。その一方で切腹への立会いを求めるという情に訴える手段も使った。国際ルールでの処分を日本式な切腹で果たす。ハラキリを初めて見た外交官らが衝撃を受けた事は想像に難くない。蔑視していた日本人に何かを感じ取っただろうか。
参考記事:その時歴史が動いた:薩英戦争
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密航留学生たちの明治維新―井上馨と幕末藩士
長州戦争―幕府瓦解への岐路
幕末長州藩の攘夷戦争―欧米連合艦隊の来襲
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