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【あらすじ】昭和30年代、日本でサッカーは人気がなく代表チームも連戦連敗。しかし東京五輪で勝利を挙げるため、日本蹴球協会は西ドイツからデットマール・クラマーを特別コーチに招く。常に選手と行動したいと言い張るクラマーは、ホテルを出て選手と共に寝泊り。高度な戦術の伝授を期待した選手達にクラマーが教えたのは基本練習だった。
やがてクラマーは日本人の勤勉さと俊敏さを生かした独自戦術を編み出す。低く速いパスと正確なボールコントロール、パスアンドゴーを叩き込む。精神面では武士道や大和魂を見せろと要求。その指導に選手達は必死に付いていった。さらにクラマーは長沼健を後継指導者、岡野俊一郎を情報・戦力分析を主とするコーチに指名。
昭和39(1964)年10月の東京五輪での対アルゼンチン戦、体格は良いが動きの鈍いアルゼンチンに対しコンビネーションの速攻を指示したクラマー。1-2で負い込まれていた日本代表は、後半36・37分に連続ゴールを決め逆転勝利。目標を達成したクラマーは帰国する。
昭和40年、長沼・岡野体制となった日本代表は、杉山隆一の突破力、釜本邦茂の得点力を攻撃の軸に据える。左サイドは杉山一人に全て任せ、釜本には右足だけでなく左足でのゴールも求めた。この戦術でアジア予選を突破しメキシコに乗り込む日本代表。
昭和43(1968)年10月14日、対ナイジェリア戦で釜本はハットトリック。16日の対ブラジル戦で苦戦する日本に、観戦していたクラマーから渡辺を入れろとのメモ。渡辺正を投入した直後、杉山-釜本-渡辺のラインでゴールが決まり引き分け。18日の対スペイン戦でも引き分け予選突破。さらに20日の対フランス戦に3−1で勝利しベスト4進出。
しかし22日の対ハンガリー戦は0-5で敗れ選手達の疲労もピークに。24日、開催国メキシコとの3位決定戦を迎える。長沼監督は
「プレッシャーを感じるのは期待の掛かるメキシコだ。我々に失うものはない」
と選手達を落ちつかせる。前半に2点を奪った日本は後半にキーパー横山謙三がPKを止める。その後も必死の防衛を続ける懸命な姿にメキシコ観客は日本を意味する「ハポン!」の大声援。日本代表は2-0で銅メダルを獲得。
祝福のため宿舎に掛けつけたクラマーが目にしたのは、意識を朦朧とさせて倒れる代表選手達だった。
「これほど全力を尽くしたチームを見た事はありません。彼らの姿は大和魂そのものでした」
【感想】○
アジア大会でも一勝もできず予選落ちするほどの日本代表に、東京オリンピックでの一勝を授けた「日本サッカーの父」デットマール・クラマーの指導と、その後メキシコオリンピックで銅メダルを獲得するまでに至った監督・コーチ・選手の戦いを描く。どん底から銅メダルまでの流れが良く出来ていて、熱くさせるドラマとして完結していた。
クラマーが自分の使命である東京オリンピックでの一勝だけでなく、その後の日本代表のために知恵や組織体制を授けていったのが大きい。その場凌ぎの戦術から入っていったのではなく、基本練習の徹底から指導。この単調な練習に選手が従ったのは、クラマーが共に寝泊りするなど、雇われコーチとしてでなく選手の中に入っていったから。
次にクラマーは自分の持っている戦術理論でなく、日本人に合った独自戦術を考案。自分も共に学んでいく姿勢を示す。さらに技術だけでなく精神面でも武士道や大和魂という日本独自のものを要求した。この精神面は誤解もされやすい概念だが、メキシコオリンピックでのフェアプレー賞獲得という結果を見ると、クラマーの求めたものが見えてくる。
後継の指導体制もしっかりと決めて去ったクラマー。その体制の下でさらに発展していく日本代表。杉山-釜本の必勝パターンの確立とそれへの絶対の自信。ブラジル戦でクラマーは杉山を外せとのメモを出すが、長沼・岡野は外さない判断で引き分けに持ち込んだ。
日本チームは全く注目されておらず、諸外国チームは杉山-釜本への対処法も編み出せない。過密な試合日程が日本代表の破竹の進撃に寄与したように思える。だがそのハードスケジュールが選手らを疲れさせる。何しろ勝ち進むという経験が無かった日本代表は、体力配分など何も分からない。
ここで最後の切り札となったのはやはり大和魂。死ぬ気で倒れるまで動き続けようと心に決めた選手達。この気迫がメキシコの観衆の心を掴む。自国開催で自国チームの応援に来ていたメキシコ人が、日本に声援を送るという信じがたい現象に発展する。ベルリンオリンピックでも観衆は日本を応援したが、それは自国チームでない分もあった。今回はその時よりも凄い事態。
本当に「ハポン!」の大声援でスタジアムが包まれたのかは、VTRでははっきりとは分からなかったが、自国メキシコチームのふがいなさへのブーイングは確実にあっただろう。最近でもイランでやった日本-イラン戦で後半にイラン人が自国チームにブーイングしてたし。
ベルリンオリンピックでの勝利は、戦争や野球人気に押されて忘れ去られた。このメキシコオリンピックでの銅メダルは、成功体験となって、その後の日本代表の「目標」として語り継がれたという。
しかしこの銅メダルから、なぜその後20年以上も日本代表は低迷を続けたのだろうか。その低迷があったから、この銅メダルも「奇跡」で片付けられているフシがある。今回はこの銅メダルが奇跡ではなく、クラマーのじっくりした指導と、長沼・岡野の確立した戦術によるものだと分かった。ではメキシコ以降の日本代表の低迷は…と考えると何となく答えが見えてきそうな気がする。
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