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【あらすじ】黒船来航の直後に急死した13代将軍家慶に代わって将軍となった家定。その正室として選ばれたのは島津斉彬の養女:篤姫(役:岩崎ひろみ)だった。篤姫は斉彬から次期将軍を慶喜とするよう密命を帯びて安政3(1856)年12月に大奥入り。しかし大奥を批判する水戸藩は大奥から嫌われ、篤姫の政治工作は失敗。1年半後には夫:家定が死去し、紀州藩の家茂が将軍となる。
天璋院となった篤姫。家茂の正室には公武合体の象徴として孝明天皇の妹:和宮(役:吉井怜)が降嫁する。天璋院は自分と似た境遇の和宮を支える事を新たな使命とするが、公家の和宮は武家の天璋院から姑として指図されるのを嫌った。しかし和宮と家茂の間に愛情が芽生え、和宮は武家のしきたりに従うようになる。
攘夷を求める朝廷と通商条約を結んだ幕府の関係は悪化し、改善のため家茂は上洛。天璋院は若い家茂が朝廷に丸め込まれると懸念した。その不安は的中し幕府は実行不可能な攘夷の約束をさせられる。家茂は第二次長州征伐の陣中で病死、天璋院には和宮の胸中が痛いほど理解できた。
慶応4(1868)年1月3日、鳥羽伏見で天璋院の実家:薩摩家は幕府軍と衝突。幕府は朝敵となり、その倒幕の命を朝廷から出して指揮したのは、和宮を降嫁させた岩倉具視だった。天璋院(と和宮)は、実家が嫁ぎ先を攻めて来るという事態に直面する。形勢は著しく幕府に不利で、慶喜は江戸に逃げ帰り、天璋院と和宮の勧めで助命嘆願書を書く。
倒幕軍は江戸に迫り、江戸攻撃を3月15日と定める。天璋院も城内からの退去を勧められるが、これを敢然と拒絶。和宮と共に短刀を構えて自害の姿勢を見せる。勝海舟はこれを知り
「天璋院は貞婦というか烈婦」と評した。
天璋院はかつて自分の監視役で現在は倒幕軍を指揮する西郷隆盛に書状を出し、徳川家存続と平和的解決を一命にかけて訴えた。これが西郷の心を痛撃し、西郷は3月14日の勝海舟との会談で「江戸城総攻撃中止」を決定する。そして4月11日、江戸城は無血開城された。
天璋院は大奥の解散を見届け、身一つで退去。島津家の支援を断り、女中の再就職・縁談に奔走。着る物にも困る生活を送りつつ、明治16年に48歳で逝去。静寛院宮となった和宮は明治10年に32歳で亡くなっている。
【感想】○
フジテレビのドラマ「大奥」や2008年NHK大河ドラマ「篤姫」の題材である天璋院篤姫の江戸城無血開城の回。その生涯はあまりにもドラマチックで、感想など改めて書く必要も無いほど。
女性が主役でその視点から歴史を捉える回は、どうしても情緒的になってしまうが(別にそれが悪いとかではなく)、今回は天璋院が西郷に出した書状がどういった経緯から生まれたのかを、一人の女性の境遇からきちんと説明できていた。
将軍の後継に隠然たる影響力を持つ大奥で、そのトップとなる正室の地位についた篤姫。島津家は一橋派として慶喜擁立を篤姫に託す。政治的に利用された結婚であり、篤姫は武家の女としてその密命を果たそうと努力する一方、自分の夫:家定が将軍として何も期待されていない事を不憫に思う。そして実際、家定は将軍として政務を司れる器でない人物だった。
家定が早々と死に、次期将軍も井伊直弼の力で家茂となり、天璋院は使命を失う。ここで和宮という自分と似た運命を背負う女性が大奥に来る。公武合体という政略と望まぬ結婚。武家と公家、嫁と姑という対立関係にあった天璋院と和宮だが、同じ女性として和解していく。
しかし幕府の凋落を止める事ができず、薩摩長州が手を組み、朝廷の方針も転換し、倒幕軍が結成される。天璋院と和宮は実家から裏切られ攻撃を受ける立場になった。政治的に利用し、失敗だと分かると嫁ぎ先を滅ぼしに掛かって来る理不尽さ。天璋院は和宮と共に女の意地を見せ始める。
徹底抗戦を叫ぶ幕臣を説得し、とにかく無抵抗を貫く事で薩長の理不尽さを際立たせようと考えたのか。だが西郷らは慶喜の嘆願書を無視して進軍を続け江戸に迫る。パニックに陥る150万人の江戸の庶民。天璋院の憤りは頂点に達し、西郷への書状となる。
島津は自分を将軍家に嫁がせておきながら、その姫の居る江戸城を攻撃するとは何事か。朝廷も和宮を降嫁までさせながら、その徳川家を滅ぼして良いのか。薩摩も朝廷も、その一部を徳川家に捧げ、自分は望みもせずその一部となったのに、その徳川家を攻撃するのか。では自分は何だったのか。
自分達は絶対に江戸城に残り、その江戸城が攻撃されるなら城と共に死ぬ。それは薩摩も朝廷も、己自身を殺す事に他ならない。なぜなら薩摩と朝廷の一部だった天璋院と和宮が居るからだ。「私を殺す覚悟で攻撃しなさい」とはこういう意味なのだろう。
これだけの決意を突き付けられた西郷は進撃を停止するしかない。もちろん、民衆の支持が得られず騒動が多発していたとか、江戸での戦闘が長引けば欧米列強の介入を招くなどの判断も大きかった。だが天璋院の出した人間の尊厳やアイデンティティーへの問い掛けに、攻撃はその答えとならなかったのも確かだろう。
その後も天璋院は島津家の支援を断固拒否し生活する。滅んだも同然の徳川家の人間として生き、その悲惨さを身をもって表現するかのような困窮の生活を送る。死ぬまで実家へ抗議し続けたとしか思えないような晩年。薩長の世の影でひっそりと亡くなっていった。
天璋院は嫁いで徳川家の人間として江戸を救った形となったが、実は薩摩人としての拘りが強かったのではないだろうか。その行動の底流には常に、薩摩人がここまでしているのだという意識が働いている。将軍正室として大奥で工作したのも、和宮と和解したのも、嘆願書を出したのも、薩摩出身の自分だからこそを体現している。
前回記事
参考記事:その時歴史が動いた:天英院煕子
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天璋院篤姫(上)、(下)
和宮御降嫁
大奥の奥
徳川将軍家の結婚
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