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【あらすじ】大蔵省官僚:下村治は終戦直後のヤミ市価格調査で、インフレの中でも懸命に生きようとしている日本人に希望を見出した。この頃、国は戦前の国債の償還で財政難にあり、政策を打ち出せずにいた。昭和25(1950)年からの特需景気で一息つくも、昭和30年代に入ると成長は見込めないとして、政府・日銀は緊縮財政をとろうとしていた。
しかし下村は、需要ではなく供給が成長の起爆剤だと考え「経済変動の乗数理論」を発表。技術革新で需要が生まれ、様々な分野で同時多発すれば+でなく×で経済は成長するとした。そのために減税と金利引下げが必要で、勤勉さと工夫を併せ持つ日本人ならば、GNP上昇は毎年1兆円以上、成長率11%を達成できると試算した。
だが経済の専門家らは、特需が終わっているのに投資を促せば、在庫が膨らみ不況を招くと下村主張を一蹴。ところがこの下村主張に着目したのが、数少ない経済成長論者の池田勇人だった。昭和35(1960)年、安保闘争後に誕生した池田内閣は「下村プラン」を採用。10年間で所得を倍増させ、農業と非農業、大企業と中小企業の格差是正をも視野に入れた「国民所得倍増計画」を公約した。
昭和36年から政府は減税と金利引下げを実施、貿易自由化で海外との競争を開始させるアメとムチで企業投資を促した。特に家電分野で技術革新が起こり、テレビ・冷蔵庫・洗濯機の三種の神器が登場。新製品が国民の需要を加速させ、経済は急成長しだした。団地での洋風生活、農村からの金の卵が働き手となり、格差解消へも向かった。
昭和39(1964)年の東京オリンピックでさらに成長したが、池田勇人が病死、公害、農村の後継者不足など問題も浮上、そして昭和40年には景気も失速し不況が到来した。金利引下げも効果なく、政府は予算を使い切り、下村は批判の矢面に立たされた。
そこで下村は6月22日の景気討論会で赤字国債の発行を提案。7月27日の国債発行で市場は政府の成長路線を評価し株価は上昇。不況も脱出し、所得倍増は計画7年目で達成。その後もいざなぎ景気が続き、GNPは世界第二位となった。
昭和45(1970)年の大阪万博以降、下村は低成長時代の到来を予見。経済ではなく文化・芸術・教養に注力すべしと主張し「変節したエコノミスト」と評された。それでもマネーゲームでは何も生まず、いつか破裂すると言い続け、平成元(1989)6月に78歳で死去。その直後、バブル経済は崩壊した。
【感想】○
戦後日本の急激な経済成長の裏には、下村の成長理論と池田の実施した計画があったというもの。緊縮に向かう風潮の中で、全く逆の発想をした下村と、それを実施させた池田の賭けにも近い決断。これが大当たりして高度経済成長を遂げた日本だが、社会には新たな歪みを生み、財政政策でも神話を残した。この幻想(赤字国債で成長)に現在の日本は囚われ、破綻しようとしている。
よく言われる「朝鮮特需で日本は復興し先進国になった」というのはやっぱり間違いで、特需後の落ち込んだ状態での政策、つまり所得倍増計画こそが高度成長を生み出したのだとはっきり分かった。単発の特需があれだけの長期的成長を生むはずはなく、10年先まで見越した所得倍増計画が戦後日本の経済を決定付けたといえる。
解説者が内橋克人なので今流行りの「格差」との言葉が頻繁に使われていたが、この計画の格差是正はむしろ絶対的貧困層の解消にあり、今のいわゆる「格差社会」と同列には出来ない。これは以前、内橋が解説者だったその時歴史が動いた:米騒動でも既述した。
下村プランの独自性は、政府の計画でありながら民間企業の力を促進させる事に重点を置いていた所だろうか。そのために政府は減税と金利引下げで当面は身を削り、企業の成長によって後から国家収入を得ようとした。さらに企業の成長の原点として、ものづくりとそれを支える労働力の確保を急がせた。日本人なら可能だと考えた下村の出発点もポイント。
単に欧米の技術革新の導入なら日本以外でも出来るが、東洋の奇跡と呼ばれるほど成功したのは日本だけだった。地政学・軍事バランスなどの要因もあるが、下村の着眼点である日本人の性質が最も大きい成功要因なのだろう。
欧米からの技術の導入と農村からの大量な労働力の流入。これによって生み出された製品の輸出で日本は海外と肩を並べていく。一方、国内には欧米型ライフスタイルを取り入れ、日本社会は劇的に変わっていった。
所得は倍増したが物価も倍増して生活水準が上がったとは言えない、といった指摘もあるが、それではどうして三種の神器を皆が持てたのか説明がつかない。それは多くの人がローンを組んで購入したからであり、ローンを組むには持続的な成長があればこそ。やはり所得倍増計画という長期的な右肩上がりの成長戦略が個々の家庭に好影響したからだろう。
下村と池田は大きな賭けに出たが、下村理論は確かな試算に基づいており、それを信じた池田の迷いのない政策を市場も好感したのだろう。だがあまりにも急激な成長は副作用も生み、工場からの公害、農村衰退、さらに日本人の性質まで変えてしまった。
下村はこの変化を恐れたのだろう。文化・芸術・教養に力を注げとの警鐘は、日本人本来の勤勉・創意工夫などの精神が失われてしまっては元も子もない、との危機感から言わせたと思われる。金融投資に走る日本を憂い、バブル崩壊を予見しながら下村はこの世を去った。
経済人達は、この下村の危機意識を嘲笑し「変節」と片付けてしまった。所得倍増計画での成功は神話レベルに引き上げられ、最後の手段であったはずの赤字国債を常套手段にした。それによって成長する・もしくは成長を下支えするとの観念から抜け出せず、ものづくりは「ハコものづくり」になった。
日本人の意識は浮付き、企業はマネーゲームに興じ、政府は赤字でもハコばかり。下村理論の前提が崩れた今、同じ事をやっても意味が無くなっている。でもそれに代わる政策を打ち出せない。文化・芸術・教養に手が回らず、対処療法で手一杯なのが今の日本。下村に学ぶ所は大きいが、下村を忘れ去るのも必要かも。
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