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【あらすじ】天正3(1575)年、30歳の黒田官兵衛は播磨領主:小寺氏に仕えていた。毛利と織田の勢力に挟まれる中、「信長が天下を獲る」と確信し小寺氏を織田方につかせ、秀吉と出会ってからは毛利方諸将の切り崩しに奔走。しかし天正6(1578)年に小寺氏が毛利に寝返り、官兵衛は有岡城に幽閉される。織田軍に解放されるまでの1年間、毛利方につく事を拒み続けた。
秀吉直属の家臣となった官兵衛は中国地方の討伐に参加。だが天正10(1582)年6月3日、本能寺の変の知らせを受ける。動転する秀吉に官兵衛は
「御運が廻って参りましたな。天下をお取りなさいませ」
と進言。中国大返しを実現し山崎の戦いで明智光秀を討ち破った。天正14(1586)年の九州討伐では戦場を駆け回る息子:長政を諌めつつ、自身は諜略によって平定のお膳立てをした。
だが、あまりの才気に秀吉は次第に官兵衛を遠ざけ、豊前18万石しか与えなかった。秀吉から疑われている事を知った官兵衛は「心清きこと水の如し」如水と名を改め隠居する。そして秀吉の死後、徳川家康と石田三成の対立が深刻になると、如水は情報収集を開始。天下を狙った構想を練り出す。
「こういう時こそ絶好の機会が来る」
黒田如水の三段作戦は、九州の諸大名が出兵した隙に九州を平定する第一段階、兵力を増やしつつ中国地方を攻め上る第二段階、戦いで疲弊した家康・三成の勝者(如水は家康勝利と予想)と最終決戦で勝利する第三段階から成っていた。この作戦の条件は、家康と三成の戦いが100日以上の長期戦となる事だった。
「花々しく一合戦つかまつる」
まず如水は天下獲りを悟られぬため、長政軍5400を家康の東軍に参加させ、残った兵力の増強のため、蓄財を叩いて農民を召抱え、9000の軍を結成。
「我と共に天下を頂こう」
慶長5(1600)9月9日、豊後に攻め入り、大友軍を降伏・吸収させた。立石・安岐・富来へと進撃する如水軍に関ヶ原の戦況報告が入る。なんと決戦は半日で家康が勝ち、その勝因となった小早川秀秋の寝返り工作を息子:長政が行ったというのだ。
「長政の大たわけめ。急いで家康を勝たせて何になる」
止む無く如水は、家康の味方のふりをして小倉・久留米・柳川・水俣を攻め続け、10月末には島津以外の九州を平定、如水軍は3万に膨れ上がっていた。だが11月12日に家康から攻撃停止命令が届く。家康は如水の動きに只ならぬものを感じ取ったのだ。
「如水の働きは底心が知れぬ」
如水は遂に時間切れを悟り、兵を引き揚げさせる。
「上方治まりたる上は是非もなし」
ここに黒田如水の天下獲りは未完に終わった。その4年後の慶長9(1604)年、如水は59歳で病死する。
【感想】◎
観ていて単純に面白かった。こんな面白さを感じたのはこの番組では久しぶり。類まれなる智略を持った軍師:黒田官兵衛が、その才気ゆえに疎まれ不遇をかこっていたが、その智略を自分のために使った一世一代の大勝負に出る。だがその野望を意図せずに打ち砕いたのは、自分の才能を受け継いだ息子:長政だったという運命の皮肉。
中途半端な知識の執筆者は、黒田如水が関ヶ原の際に天下獲りに動いた事は知っていたが、九州で戦う事がどうして天下に繋がるのかよく分かっておらず、単に如水は混乱に乗じて隣国をかすめ取って勢力拡大を目論んだ…くらいにしか思ってなかったが、実は壮大な作戦構想があったと知った。
たった18万石の領地で隠居生活を送っていた55歳が、精鋭兵力を息子:長政に出して、農民兵で隣国を攻め始める。それが天下獲りに繋がるなんて信じがたい。そりゃ長政も父の真意に気付かないよ。でも如水は戦国を智略で生き抜いてきて、この混乱ならチャンスがあると踏んだ。そして実際、九州のほとんどを手中にしてしまうのだから恐ろしい。
平時での諜略と混乱での迅速な行動が如水の基本原理で、中国・九州討伐は諜略、中国大返しと天下獲りは迅速な行動。戦いも事前の諜略で勝利が決定づけられてから戦っているので、やはり根本は智略の人といえそう。勇敢に戦うだけの長政を侮っていた。
中国大返しの進言から秀吉は官兵衛を恐れるようになったという。それで18万石しか与えなかったが、そんな境遇にあっても官兵衛の才気は人知を超越しており、三段作戦を練り上げてしまう。中央から遠く離れ、兵力もロクに無いのに瞬く間に九州平定目前までやってのけた行動力。確かに中央に置いていたら脅威だろう。
如水の三段作戦は条件付きの他力本願的な要素もあったが、家康勝利の読みまでは当たっていた。だから関ヶ原以前に西軍領地に攻め入っていたのだし。その勝利の仕方を読み誤った所が致命的で、しかも息子の働きで計算が狂ったというのが哀しすぎる。でも関ヶ原前日まで西軍は大垣での持久戦をやるつもりだったから、そうした情報を掴んでいた如水が読み誤るのも仕方ない。
忘れてはいけないのは石田三成の存在。官兵衛に代わって秀吉お気に入りとなった軍師だが、長政は父:官兵衛失脚が三成のせいだと思っていた。だから三成襲撃もしたし、喜んで東軍に加わって小早川工作も行い、関ヶ原では三成軍を目掛けて怒涛の突進をしている。長政は父に認めてもらいたいがために、父の仇と思しき三成を憎んでいた。これが行動の源泉。
如水は勝利する家康に長政をやった方が生き残ると踏んで送り出した。あくまでも息子にはさしたる働きを期待していなかった。だが長政は父のためを思って打倒三成に死力を尽くした。親子の互いを思う心が招いたちぐはぐな大誤算が浮かび上がってくる。そう推理してしまうのだが。
関ヶ原後も如水は進撃を続け一気に九州を獲得する。これは如水軍の強さというより、事前の準備があったからではないかとも思う。解説者の言う何らかの同盟・連絡網があったからでは。秀吉時代に九州諸大名を諜略した事、キリシタンだった如水への共感など。これらがない限り、戦ってから如水軍に加わって兵力が膨れ上がるという事象を説明しにくい。
恐らく九州だけでなく、如水は中国にもこのような関係を築いていたと思われる。中国諜略も官兵衛が行っていたし、毛利の関ヶ原での不可解な行動ももしや…と。また、三成も捕らえられた際に「再起の機会を窺っていた」と語ったが、これも家康が一度の勝利で天下を獲るとは限らないと思っていたからだろう。つまり家康に立ち向かう勢力はまだ現れると思っていた。それが如水でも伊達正宗でも良かった。
全ては関ヶ原が半日で決してしまったから、これら各勢力は手出しが出来なかったわけだが、如水もやがてこの現実に気付く。九州を迅速に制圧できたのは、自分の力というよりも、関ヶ原で家康が圧勝したからではないか。表向きは東軍の自分に味方が増えるのは勝ち馬に乗っているだけで、本当に家康と決戦をする事になったら如水軍など消えて無くなるのではと。
自分の好調な進撃は、所詮は家康がもたらしたものであり、その勝因は息子:長政によるものだった。如水の天下獲りへの智略は家康の掌中での動きに過ぎなかった。ここでやっと悟った如水は何事も無かったかのように兵を引き揚げたのだ。
晩年のエピソードは如水の生き方と長政への思いが溢れている。家臣を罵るのは、自分が嫌われ者になって長政の世にしやすくするためだと長政に囁く。床に臥せる如水が最後に出来た智略は、息子への愛が込められていた。長政は父からやっと認められたのである。
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