【あらすじ】南北朝時代の応安元(1368)年に11歳で三代将軍となった足利義満は、南朝勢力の北九州を攻めた際、懐良親王が「日本国王」として中国:明と貿易していると知る。室町幕府が正統政府だと訴えるため明に使節を派遣しようとする義満だったが、幕府内には90年前の蒙古襲来からの中国への不信感、日本を属国とみなす明の洪武帝への反発などがあった。
義満はそれを押し切って応安6(1373)年に派遣したものの、将軍は天皇の家臣に過ぎず代表ではないと撥ね付けられた。6年後に再度派遣するも、傲慢・臣下の礼がないとして交渉できなかった。義満は唯一の代表になるために永徳元(1381)年に九州を制圧し、明徳3(1392)年には南北朝を統一させた。
当時、貨幣不足の日本はデフレ状態にあり、明との貿易によって銅銭を輸入する事で経済を立ち直らせようと画策した義満。まず永徳3(1383)年に准三后の地位を得て皇族準拠となり、京・北山に迎賓館として鹿苑寺(金閣寺)を建立。着々と明との貿易開始の準備を進めた。
明の皇帝:建文帝が叔父と皇位争いをしていると知った義満は、皇帝が周辺国からの承認を欲している今こそ好機と捉え、明に三度目の使節を派遣する。1年3ヶ月後の応永9(1402)年、明の使節を金閣寺で迎え、恭しく臣下の礼をとった義満は国書を開く。そこには義満が国王として認められており、ここに国交は回復した。
応永11(1404)年から勘合を使っての日明貿易が開始され、金の工芸品を輸出し銅銭「永楽通宝」を輸入し室町時代の経済を潤した。義満は応永15(1408)年に51歳で病死。
【感想】◇
日本国内の対立や代表の正統性問題を克服し、明のプライドを損ねずに実利を得る国交を回復した足利義満。これで経済も回復し室町幕府の力が強まった(北山文化が栄えた)というもの。
義満の明との交渉術に焦点を当てて描いており、下手に出て中国の自尊心をくすぐって、抜群のタイミングで使節を派遣して国交を回復させた、義満のしたたかさを強調していた。冒頭に現在の日中関係が説明されている事から、今の日本も中国とこのように交渉せよとのメッセージなのだろうか。
それはそれとして、義満の三度目の使節は過去に自分が明から受けた仕打ちを、そのまま明に適用する意趣返しのような面白さがあった。
南朝と北朝に分裂していた上に、将軍は天皇の臣下だから代表ではないとされた義満。南北朝を統一して、皇族の地位を得るなど、まずは国内での覇権を握っていく。同時に金閣寺を造って内装も中国風で固め、明のご機嫌取りも忘れない。
洪武帝の時代では機が熟していないと見るや、次の建文帝まで待つしたたかさ。そして建文帝と叔父との皇位争いを好機と捉える。過去に自分が代表と認められなかったのは、ライバルがいたからであり、そのライバルを押し退けるためにも外国からの承認が欲しかった。だから今、建文帝も周辺国からの承認を欲しているはずだと読んだ義満。
臣下の礼をとって建文帝に使節を派遣したのは、見方を変えると日本は建文帝を支持し、明の皇帝だと認める事になる。これを建文帝が撥ね付ける事はないというわけ。
番組では明との交易を、デフレ経済脱却のためと説明していた。あくまでも経済的見地から日明貿易を義満が望んだようにとれるが、実際は政治的思惑が優先していたのではないだろうか。国交がなかったとはいえ、民間貿易は盛んだったと番組中でも言及されていたし。
足利義満は皇族を乗っ取ろうとした人物として有名であり、明から「日本国王」として認められる事もその武器にするためだった、という解釈の方がすんなりと納得できる。日明貿易での経済活性化も幕府の力を強めるためで、今回の解釈である「デフレ脱却」も方便に過ぎない気もするが。
前回記事
←Top
室町の王権―足利義満の王権簒奪計画
天皇になろうとした将軍―それからの太平記 足利義満のミステリー
足利義満
足利義満 中世王権への挑戦
NHKその時歴史が動いた サウンドトラック
その時歴史が動いたDVD
その時歴史が動いた(NHK本)
by Amazon