【あらすじ】昭和11(1936)年8月に開催されたベルリンオリンピックは、ヒトラーのナチスドイツのアピールの場として使われた。日本も国威発揚のため次回開催国に立候補し、1940年の開催国となった。だが1937年からの日中戦争により各国は不参加を表明。1938年7月13日、日本は東京でのオリンピック開催を断念。
日本オリンピック委員会主事の田畑政治は、水泳チームの総監督でもあったが、選手達は太平洋戦争で次々と戦死した。敗戦後、「スポーツで愛国心を育成しても何にもならない」と悟るが、設備もなく泥水の中を泳いで練習する選手の姿に心打たれる。昭和26(1951)年のヘルシンキで日本はオリンピックに復帰。そのヘルシンキオリンピックは東西冷戦の舞台となっており、日本は東という敵の登場によって参加できただけであった。
昭和29(1953)年5月のマニラアジア大会に参加した日本選手達は激しいブーイングに遭い、石を投げられ表彰台にも立てないほどだった。田畑は日本が平和になった事をアピールするため、もう一度、東京でオリンピックを開催しようと決意する。経済的に効果があることを試算し、国家的事業にするとの岸信介首相の確約を得て、デトロイト・ウイーン・ブリュッセルとの選挙を征した日本。開催に向けたインフラ整備によって高度経済成長を遂げる。
田畑は、アジアに反日感情があるままでの開催は、復興を自慢するだけになってしまうと思い、聖火をアジア諸国を巡らせる計画を発案する。昭和39(1964)年8月にアテネで採火された聖火はラングーン・バンコク・クアラルンプール・マニラ・香港・台北とリレーされた。アジア大会のようなブーイングもなく、アジアの人々は声援を送ってくれた。そして米統治下の沖縄を経て、広島を通り、昭和39(1964)年10月10日に東京の国際競技場で聖火式が行われた。
46日間、2万6千人の手でリレーされた聖火の最終ランナーは、広島に原爆が投下された1945年8月6日に広島で生まれた坂井義則(19歳)が務めた。
【感想】×
オリンピックが国威発揚や東西冷戦の舞台として使われる事に疑問を抱いた田畑政治が、平和をアピールするために東京での開催に腐心した様子を描く。その具体的行動としてアジア諸国を聖火リレーさせ、アジアの民衆にも日本が平和国家となった事を理解させたというもの。
東京五輪を、従来の日本の復興と経済成長という視点ではなく、アジア諸国との相互理解という視点で描こうとした製作意図は分かる。だが、その相互理解が聖火リレーが成功したから達成された、めでたし目出たしで終わらせてはいけないのでは。現に、東京五輪後の1970年代・80年代になっても日本選手はアジアの観客から激しいブーイングを浴び続けたのだし。
また、聖火リレーが成功した理由も番組中では何の説明もなかった。アジアのその国の人々が聖火を持って走る姿に送られた声援が、どうして日本との相互理解、侵略への許しとなるのか。アジア大会のように、日本選手がアジア諸国の選手と戦う場において声援が送られない限り、田畑の意図が達成されたとは言い難いと思うが。
だとしても、侵略戦争の許しや反日感情をスポーツ大会で測る(悪く言えば請う)というのは、田畑の考えたスポーツと国際問題の別離とは言えないものである。オリンピックや競技大会を平和のアピールの場にしようという発想の起点からして、論理的には国威発揚や代理戦争と性格を同じくするものである。
そもそもアテネを起源とするスポーツの祭典・オリンピア祭は、代理戦争そのものであり、その復興として提唱された近代オリンピックも、建前は別として国威発揚や代理戦争の場として政治利用されるのはごく自然な事である。
それを平和の象徴と考えてしまった日本はむしろ間違っているのであり、選手にも国のためではなく個人の「楽しさ」を求める姿は異様だ。それなのに、日本が勝つ金メダルに執拗にこだわる矛盾を露呈している(特にマスコミは)。
そして、次回開催国の中国を見ても分かるように、五輪は平和ではなく国威発揚に使われている事は明白だ。さらに、再度東京での五輪招致活動を展開する石原都知事から「平和のため」との理由が発せられた事はない。東京の経済効果を説く商業主義が表向きの主張であり、その裏の意図は言わずもがな。
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