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【あらすじ】島原の領主:有馬晴信はキリシタン大名であり、宣教師から鉛や硝石の提供を受ける代わりに領民にキリスト教への改宗を勧めていた。やがて切支丹は仏や神を異教として攻撃し始め、仏像破壊を行った。江戸幕府と交易のあったプロテスタント国:オランダはこれを、カトリックによる排斥であり内乱の企てだと家康に訴える。
慶長17(1612)年2月、有馬晴信はキリシタンと組んでの領地拡大の咎で死罪。翌年の禁教令布告から島原の領民もキリスト教を捨て始め、寛永5(1628)年には島原からキリスト教は一掃された。だが一部の領民は秘密組織:コンフラリアを結成し密かに信仰を続けた。コンフラリアにはローマ教皇:ウルバノ8世も「宣教師の大群を送る」との手紙を送った。
寛永14(1637)年、松倉氏の圧政が続く中、島原は3年連続の飢饉。領民達の間に天人が現れ神の審判が下るとの噂が広まる。16才の天草四郎が聖書を暗記し奇跡を起こす天人として祭り上げられる。10月25日、領民と浪人3万7千人が蜂起し島原城を攻撃。江戸幕府はカトリック教国と宣教師の関与を疑い、12万の軍勢を動員。一揆勢は原城に立て篭もった。
寛永15年(1638)年1月1日、幕府軍は大攻撃をするも、一揆勢は事前に情報を掴んでおりこれを撃退。幕府軍に4千の死傷者が出たのに対し、一揆勢は17名の負傷のみ。新たな指揮官として伊豆知恵の異名を持つ松平伊豆守信綱が着任。ポルトガルからの援軍を待つ一揆勢の士気を砕くため、オランダに依頼してオランダ船から艦砲射撃をさせた。
味方と思っていた異国船からの砲撃に一揆勢は動揺。さらに不死身と信じていた天草四郎にも銃弾が当たり側近が死亡。援軍も無く疲弊しきった所で2月27日の幕府軍の総攻撃を受け一揆勢は壊滅。天草四郎も討死した。幕府は残った一揆勢を皆殺しにし原城を埋めた。その後、禁教令を強化してポルトガルと国交断絶、領民には踏絵を実施した。
【感想】○
かつて正式に認められていたキリスト教が禁止となり、島原の民は一旦はキリスト教を捨てたものの、圧政と飢饉で天草四郎をカリスマとして蜂起。ポルトガル・イスパニアからの援軍を待って篭城。しかし援軍は現れず、四郎のカリスマ性も崩れ敗北。女子供までも皆殺しにされる。蜂起から敗北までの理由が分かりやすく説明されていて、島原の乱の宗教説として良くまとまっていた。
島原の乱には松倉氏の失政説もあり、それを隠すためキリスト教に罪を着せたとの見方もある。だが今回紹介された中からは、有馬氏はキリスト教から利益供与されながらの統治だったのに対し、松倉氏時代にはそれがなく、そのぶん領民にしわ寄せがいく訳で、どちらが原因だというより、複合ではないかと思う。
ともかく、島原・天草の領民は飢饉と圧政の苦しみから抜け出すため、キリスト教を拠り所に蜂起した。その支えになっていたのが、天草四郎というカリスマ指導者と、ポルトガルからの援軍。
原城での篭城作戦は援軍を待つためだったというのは、従来の追い詰められての選択という解釈からは合理的で納得しやすい。3万7千人に対し12万の幕府が大軍と説明されていたが、拠点攻撃には攻め手は守り手の3倍、との兵法の大原則からすれば妥当な数だ。
オランダ船が艦砲射撃したという所は知らなかった部分だった。背後にはカトリックとプロテスタントの対立があり、「伊豆知恵」の松平伊豆守信綱がそれを熟知しての作戦に出たのに対し、篭城する領民はそんな事情は理解できなかった分、ショックだったのだろう。
また、本当に援軍が来るのかどうかも怪しいものだった。ローマ教皇の手紙も蜂起の10年以上前に書かれた物で、はっきりと軍を派遣するとも書いていない。そして天草四郎のカリスマ性も作られた物であり、どちらもメッキが剥がれるのは時間の問題だった。
領民の支えの援軍・カリスマに希望が持てた時期は強かったものの、戦いの中でそれが失われて敗北という経過も理解しやすかった。だが基盤にキリスト教があったために、生き残った領民は皆殺しの憂き目に遭う。解説者:神田千里も「宗教でなければ有り得ない悲劇」と語っていたが、もっと切り込めば、一神教ならではの悲劇と言えそうだ。
そもそも幕府が危機感を抱いたのは、一神教のキリスト教による仏像破壊・仏教弾圧だった。仏教と深い関係にあった幕府にとって、大名がキリスト教と結びつくのは脅威だっただろう。それにプロテスタントとカトリックの対立の要素が加わり、オランダにそそのかされた面もあるがポルトガル・イスパニアとの断交となった。
ポルトガル・イスパニアが各大名も相手に交易していたのに対し、オランダは布教をセットにせず幕府とのみ交易の方針に従った。相手国の事情を理解しての交易を選択したオランダ。それに対し、相手国に構わず一神教に伴う戦いのリスク考慮もせず、仏教を排斥しながら布教と交易を進めるポルトガル・イスパニアのやり方は、それ自体が侵略と言えなくもない。島原・天草の領民は両勢力の対立の犠牲者とも言える。
前回記事
参考記事:柳生十兵衛七番勝負 島原の乱
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