テレビ批評的視聴記 - 2006/12/30

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2006年12月30日(Sat)▲ページの先頭へ
その時歴史が動いた:知的障害児教育

【あらすじ】明治時代、石井筆子(旧姓:小鹿島)は鹿鳴館の華と呼ばれる良家の子女。仏留学し津田梅子と共に華族女学校教師だったが、高級官僚に嫁いで明治19年に長女出産。だが、長女は知的障害児で次女は1歳で死に、三女も発達障害だった。新聞も筆子を「憐れ」と書き立て、筆子も「わが身の終わり」と悲観した。夫が亡くなり離縁され筆子は信仰にすがる。

立教大学出身の教育者:石井亮一は米留学で障害児教育を学び、明治30(1897)年に全寮制の滝乃川学園を開設。学園を訪ねた筆子は感銘を受け、亮一と共に教育に携わる。6年後、二人は結婚。だが石井筆子は良家の子女相手の教育とは全く違う現場に無力だった。それでも、生活の中で五感を刺激して発達を促す方針は、次第に成果を見せ始める。筆子は嫁入り道具だった「天使のピアノ」を弾き続けた。

大正9(1920)年、学園に火事があり園児6名が死亡。「慙愧の想い」と筆子。しかし大正デモクラシーの社会状況が学園への寄付を呼び、学園は巣鴨から国立市谷保へ移して再建。亮一は大人になった園児の働ける農場を作る。だが昭和恐慌で学園の経営は悪化、亮一は病に倒れ昭和12(1937)年6月に70歳で死去。日中戦争開戦で学園閉鎖も検討される。

筆子もまた病魔に侵されながら学園の存続を決定。10月16日に自ら学園長に就任。あらゆるつてを頼って寄付を募り、職業訓練設備拡充や小学校への養護学級導入を訴え続けた。筆子は昭和19(1944)年1月に82歳で死去、学園は戦乱を生き延び、視察した教育者によって戦後の障害児教育が全国に広まるきっかけとなった。

【感想】◇
上流階級の華やかな教育者だった筆子(朗読:常盤貴子)が、障害児を産んだ事で転落したが、石井亮一との出会いで障害児教育に一生を捧げる。富国強兵の日本で著しく差別された障害児を守りつつ、手探りの教育をし、火災や不況、戦乱をも乗り越えていく。石井亮一と筆子の並々ならぬ使命感と精神が知的障害児教育を守り、戦後の拡大に繋がった。

この滝乃川学園が閉鎖されていたとしても、戦後にはアメリカによって知的障害児教育が日本に導入されただろう事は想像できるが、あくまでも日本人の手によって知的障害児教育が興り存続したという点が重要なのだろう。先駆者:石井筆子・亮一の遺志が脈々と受け継がれ、日本の障害者福祉が確立したと。

学園の存続決定、筆子の学園長就任が「その時」だったが、借金だらけの中、筆子も戦中に亡くなっているし、その後どうやって存続したのかという具体的な点は明確にされず、ややスッキリしないまま番組は終わった。というかその時よりも、明治・大正・昭和とずっと筆子と亮一が第一線で携わっていた事が、番組内の年代テロップでサラっと分かる所が衝撃的だったが。

筆子が華族で教育者だったという点は学園経営にも有利に働いた模様。親交のあった金のある華族からの寄付(教え子だった華族も含めて)、そして番組ではなぜか極力抑えた表現になっていたキリスト教の協力。教育者だった筆子は学園でも先生となる。石井亮一の最新の障害者教育理論を実践し、五感の刺激というヘレン・ケラーのような発達を見せる園児達。

だが、兵隊になれない人間以外の価値を認めない富国強兵の日本での、障害者への差別は今の比ではなかっただろう。そしてどんどん戦争に突き進む社会情勢と不況。亮一も筆子も病魔に倒れ、追い詰められる。

ここでの解決が精神論で説明される。学園を卒業し普通に働く教え子からの手紙、亮一の言葉「人は誰かを支えている時、実は恵みを貰っている」。筆子はもう一度気持ちを奮い立たせ、存続を決定する。…で、やっぱりどうして存続できたのかが解らない。

障害者への支援に関連し、旧政府も現政府も批判する事は容易なのだが、筆子の事例を見る限り、政府の方針よりも国民一人ひとりからの支援の方が重要なのではないか。大正デモクラシーで一般人からも寄付が来たというような事が今の日本で可能か。まぁ寄付は目に見える形として、一人ひとりのちょっとした気遣いの行動はどうかという意味で。
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