テレビ批評的視聴記 - 2006/10/16

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2006年10月16日(Mon)▲ページの先頭へ
その時歴史が動いた:細川ガラシャ

【あらすじ】明智光秀の娘として永禄6(1563)年に生まれた玉。天正6(1578)年に16才で細川忠興と結婚、翌年には息子も生まれる。だが、天正10年に本能寺の変で明智光秀が織田信長を討つ。細川家は光秀に味方せず山崎の戦いで光秀敗北。玉は謀反人の娘となり、京丹後市の味土野に幽閉される。

2年後、豊臣秀吉の許しが出て大坂へ戻った玉だったが、その間に忠興は側室を設け子供も生まれていた。一方、忠興は玉の外出を固く禁じ、玉は部屋に引きこもるようになった。そんな時、キリスト教の噂を聞いた玉は、忠興が九州征伐に出陣している間に屋敷を出て宣教師に会いに行く。侍女を通じて洗礼を受け、細川ガラシャと名乗る。

天正15年に宣教師追放令が出てキリスト教迫害が始まると、忠興はキリスト教の侍女を追い出す。ガラシャは洗礼発覚を間逃れたが忠興との離婚を考えるようになる。しかし宣教師の「困難に出会ってこそ人の徳は最も良く磨かれ美しい光を放つ」との言葉に救われ、忍耐強い人格者となり笑顔・喜び・快活さを取り戻す。

石田三成と徳川家康の対立が深まり、家康側に付いた忠興。上杉討伐に向かった家康側武将の家族を人質に取る策を思い付いた三成は、真っ先に細川屋敷に人質を要求。正室として屋敷を守る役目、人質になれば忠興の行動を制限する、その答えは拒否しかなかった。細川屋敷を襲う三成軍勢。キリスト教で自殺は大罪とされているため、ガラシャは家臣に自分の胸を突かせて果てる。

ガラシャの死を知り、黒田・加藤・山内の妻らは一斉に大坂から待避。三成の人質作戦は失敗に終わる。関ヶ原の戦いで細川忠興は自ら刀を抜き石田三成本陣に突撃。ガラシャの一周忌をキリスト教形式で行い、その後のキリシタン弾圧でもガラシャの墓石は細川家で手厚く保護された。

【感想】◇
謀反人の娘、夫との不仲という玉に降りかかる逆境を救ったキリスト教。だがキリスト教迫害、人質要求といった更なる悲運に見舞われる。武家の正室としての立場とキリスト教の教えの狭間でガラシャが出した答えは、自分の胸を突かせて死ぬという選択だった。それは結果的に三成への反感を生み、関ヶ原の帰趨を制する一因となったその時。

三成の人質作戦とガラシャの死は、反三成の形勢にかなり影響を与えたとされている。この一件で三成の非情さが説明される事も多い。もともと三成を嫌っていた武将もガラシャの死で反三成になるダメ押しの効果もあった。だから今回のその時はそれなりに重要ではある。

ただ、ガラシャとしてはキリスト教の教えを守って殺された形を取ったものの、忠興の書状「妻自害の上は〜」とあるように、自殺として扱われている。ガラシャ視点では、自殺できないキリスト教だから人質拒否で苦悩が深まったと言えるが、他者から見ればあくまでも武家の妻だから人質か拒否かで自害したと捉えられている。

キリスト教はガラシャの心を救ったかもしれないが、その地位や立場を救ったとは言えない。離婚を考えたガラシャを宣教師は思い留ませてもいる。もしこの人質作戦を生き延びたとしても、キリシタン弾圧の徳川の世で生きていくのは無理だっただろう。そう考えるとむしろキリスト教はガラシャをより不幸な境遇に追いやっただけとも言えなくもない(あまり断定はしないが)。

松平アナも質問していたが、忠興はガラシャをどう思っていたのか。答えとして正室として尊重していた、死によってキリスト教の理解もしたとされていた。ガラシャの息子を跡目にしたのは、まだ洗礼を受けていない時に生まれた子供だったからだろうか。外出禁止は当初、謀反人の娘が人目に触れるのを避けるためだったが、洗礼後はそれも知られるのを避けるためだったとも解釈できる。もちろんガラシャの洗礼は人々に知られていたが、積極的な活動を封じておけば咎められないと考えたのだろうか。

キリシタン弾圧でもガラシャの墓石が守られたというのは、忠興の改心があったからというように説明されていたが、細川家の努力もあるものの、ガラシャの死が徳川有利に作用したための、徳川幕府による温情ではないだろうか。だとすればやはりガラシャの死が関ヶ原に与えた影響は大きかったという事か。
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