テレビ批評的視聴記 - 2006/09/27

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2006年09月27日(Wed)▲ページの先頭へ
その時歴史が動いた:秀吉の妻おね

【あらすじ】両親の反対を振り切り秀吉と恋愛結婚した、おね。秀吉を尻にしき、秀吉が長浜城主となってからは、年貢の減免を続けさせるなど政治にも力を発揮。子宝に恵まれず親戚の子を育てる。後の豊臣秀次、小早川秀秋、福島正則、加藤清正、浅野幸長、黒田長政など。これらの子達は賤ヶ岳の七本槍として名を馳せた。

天正11(1583)年に大坂城が完成し北政所となったおね。淀が生んだ鶴松を育てるが死んでしまう。朝鮮出兵の講和で加藤ら子飼いの武将は日本有利の講和、石田三成ら実務官僚は現実的な講和で対立。三成の意を汲んだ秀吉が清正を蟄居させたが、おねが処分撤回させる。しかし再び淀の生んだ秀頼は淀が育てる事に。

秀次と妻子の処分に心痛めるおね。浅野幸長の能登流罪、小早川秀秋の所領召し上げも止められず。慶長3(1598)年8月の秀吉の死後、徳川家康が政権を仕切りだし、三成らは反感を持つ。翌3月、福島や加藤らが三成を襲撃し、家康の仲裁によって矛を収め、三成は奉行を解任させられる。9月、おねは大坂西の丸を出て京屋敷に。その2日後、家康が西の丸入り。

慶長5(1600)年6月、家康の上杉討伐の隙に挙兵した石田三成は、家康との多数派工作の末、9月15日に関ヶ原合戦。秀吉子飼いの武将が北政所のためにと家康につき、正午の小早川秀秋の寝返りによって三成敗北。豊臣政権の内部抗争は終わり、大坂夏の陣までの15年間、おねの願いである豊臣政権は守られた。

【感想】△
北政所となったおねが、豊臣政権存続を願って下した家康支持の決断。その意を汲んだ子飼いの武将達が家康に味方した事で、豊臣・徳川の二重政権となっても辛うじて残った。結局は大坂の陣で滅びるが、おねは豊臣を救おうと83歳の体でも大坂に行こうとしたという。

やはり記録が少ないためか、おねが歴史にどう影響を与えたのかが不明瞭で、心情推測に頼らざるを得ないのが泣き所。それでも年貢減免継続や清正処分撤回はスタッフが苦心して集めたのは分かった。だが「その時」である小早川秀秋の寝返りが、おねの功績だったとの部分は憶測でしかない。

秀秋宛ての黒田と浅野の密書に「北政所のため」とあったとの発見も、それなりに価値はあるのだろうが、それが決定的とは言い切れない。多数派工作の説得要素の一つに過ぎないような。北政所の意向が示される以前から福島や加藤らは、とにかく三成憎しで襲撃した経緯もあるし。

おねの意思を一番良く表わしていたのは、西の丸を家康に明け渡した所だろうか。ただ、おねが家康についたからといって豊臣に見切りを付けたとの良くある解釈は、当たっているようで当たっていない気もする。政権を食い物にする小粒な三成よりも、器の大きい家康の方が豊臣を残してくれるとの期待があったのでは。

淀と秀頼への恨みというのも違うと思う。実子がおらず、親戚の子を育て上げたおね。子を育てたいと思う親の心を充分理解し、また自分もそう思っていたから育てたわけで。だから秀頼を育てたいと思う淀の心も理解していたはず。秀頼を取り上げられたから淀を恨むなどという、浅はかな感情を押し殺すくらい出来ただろう。
参考記事:その時歴史が動いた:石田三成
前回記事(豊臣秀長)
次回はその時歴史が動いた:天英院煕子で既述。
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