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【あらすじ】桶狭間の2年後、兄:秀吉から請われ23歳で武士になった秀長。美濃攻めでは川並衆を、表裏なく義侠心に訴えて味方に付ける。朝倉との戦いで裏切った浅井の攻撃から織田信長を撤退させるため、秀吉がしんがりを務める。その中で敵に真っ先に当たる部隊の指揮を執る秀長。川並衆の獅子奮迅の活躍で生き延びる。
滅んだ浅井氏の近江領では暴動が起きるが、秀長は旧浅井の家臣を召し抱え平静を取り戻す。毛利攻略では秀吉が山陽道、秀長が山陰道を担当。しかし拠点としていた竹田城が裏切りで奪われる。この窮地を救ったのは近江で召し抱えた藤堂高虎だった。
信長、明智光秀の死後、柴田勝家との戦い。秀吉が岐阜に向かっている最中に総攻撃を受けた秀長。中川清秀を見殺しにせざるをえず、武将達の秀吉への不信感が募る中、敢えて秀吉からの叱責に甘んじ、その信頼を取り戻す。
徳川家康との小牧・長久手の戦いでは、秀長は家康と同盟した織田信雄を攻撃し講和させ、大義名分の無くなった家康も講和。天正13(1585)年3月には紀州を攻略。武器さえ手放せば自由、召し抱えても良いと触れ紀州平定。6月には四国出兵で長宗我部と戦い7月に降伏させる。
関白となった豊臣秀吉だが、上洛に応じない家康に手を焼く。妹:旭姫、母:大政所を人質に出す事に秀長は悩みながらも同意。やっと上洛した家康の接待役となった秀長。諸大名が集まる翌日の秀吉との会見を前に、秀長の屋敷で秀吉を家康に通す。天正19(1591)年10月27日、家康は秀吉に臣下の礼をとる。これで天下統一はほぼ成し遂げられた。
【感想】◇
豊臣秀吉の天下統一という偉業の影に隠れた実弟:秀長の知られざる功績を追う。兄弟同士でも殺しあう下克上の世にあって、秀長は秀吉を補佐し続け、知略に長けた秀吉の足りない部分:情と実直さを補った。秀長がいなければ秀吉の天下統一はなかったとの主張。
10代から武士になり、伸し上がるために何でもしてきた秀吉と違って、秀長は23歳まで農民で庶民感覚が身に付いていた点が大きい。畑違いの武士社会にその感覚を武器にしていった所が持ち味で異彩を放ち、それが敵をも見方に付ける魅力になっていったのだろう。もともとの実直な性格というのもあるだろうが。
情を持って召し抱えた川並衆、藤堂高虎によってピンチを救われるエピソード。叱責される役を阿吽の呼吸で買って出る所など、偉ぶらない秀長の性格がよく伝わって来る。一方で織田信雄、長宗我部には武力を用いたわけで、後期になると武将としての力も身に付けたという事か。
今回のその時は徳川家康の臣下の礼だったが、番組ではこれを企画演出したのが秀長だという風に描いていた。しかしこれは本当にそう言い切れるのか。番組でもギリギリの所で断定は避けていたが、肝心のその時が当人だけの功績とは言い切れないなら、「その時」の設定がおかしいのではないか。
確かに会見前日の突然の秀吉訪問は、場所が秀長の屋敷だったからこそ、情報漏れも気にせず、秀吉のメンツも守って出来たといえる。だがそれを考案したのが秀長だったとは少々疑問。秀吉の知略だと推測するのが妥当では。秀長は阿吽の呼吸で秀吉に従っただけのような気がする。
ただ、秀長死後の朝鮮出兵や秀次と秀頼との世継ぎ問題などで、ことごとく秀吉の策は裏目に出た事を考えると、秀吉秀長コンビは知略でもよく相談しあって決めていたのかもしれない。だから臣下の礼も二人の共同作戦というのが真相か。
参考記事:その時歴史が動いた:藤堂高虎(この記事でベタ誉めした上之郷 利昭氏がつい先日亡くなったとの事)
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