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【あらすじ】日本独立〜吉田茂とサンフランシスコ講和条約〜後編。対日講和七原則を公表したアメリカは、1951年1月に特使:ジョン・フォスター・ダレスを派遣。吉田・ダレス会談で吉田は沖縄・小笠原の信託統治後の返還を求め、ダレスは自由世界への貢献として日本再軍備を求める。吉田は再軍備を拒否するも、5万人の陸海保安部隊を将来創設すると譲歩。
講和草案では再軍備と米軍駐留は、条約とは別協定に盛り込む事を決める。これは国民に秘密とされたが、国会で吉田は秘密協定の噂を追及される。吉田は再度、統治領返還をアメリカに求め、ダレスは施政権・基地を置けるならと将来の返還を約束。
1951年9月、サンフランシスコのオペラハウスで講和会議。参加しないとみられていたソ連のグロムイコ外相が、中国不参加の会議は無効と冒頭で発言。ポーランド・チェコもアジア諸国に不調印を呼びかける。フィリピンのロムロ代表を始めインドネシア・ビルマは賠償金なしに反発していた。日本には心からの悔恨と生まれ変わる証拠を要求。
9月8日、アジア諸国は吉田の講和条約受諾演説「我々は平和・正義・進歩・自由に挺身する国々の間に伍し、これらの目的のために全力を捧げることを誓うものであります」を信じ調印。参加52ヶ国中49ヶ国が調印した。
同日、サンフランシスコ郊外の米第六兵団駐屯地に向かった吉田は、日米安全保障条約に調印。日本での米軍駐留がここで決まった。その後日本はアジア諸国と個別に賠償協定を結び、総額15億ドルを支払った。
【感想】△
前回は吉田の外交勘により講和交渉が進んでいく過程を追ったが、今回は実際の講和会議での成り行きを追う。前回が戦略的というか大局的だったのに対し、今回は大局性があまりなく、講和成立が危ぶまれる状況だったとの説明はあったが、結局丸く収まったのはなぜなのかが良く分からないままだった。
さてさて、まず重要部分はアメリカとの秘密協定。日本国民に内緒で吉田の判断で保安部隊創設が決まった所。ここを突く余地は十分にある。だが吉田には国民に秘密だからこそ、出来るだけ国民の反戦の願いを忖度(そんたく)し、最低限の再軍備で済ませようとした努力の跡が多分に感じられる。
沖縄・小笠原の日本返還もこの時点で将来的に約束されていたというのは、当初アメリカが返還に反対だった事を考えれば、吉田の力に拠る所が大きい。その代わり沖縄・小笠原に米軍基地をたくさん置かせてもらうぞ…との要求を飲まなきゃいけなかったが。
サンフランシスコ講和会議自体が冷戦の縮図となってしまった点は、吉田の意図する所ではなかっただろう。そうなっても日本に発言権のない会議では何も出来ないし。やはり当時の朝鮮戦争が大きい。中華人民共和国・中華民国、韓国・北朝鮮の不参加が後々まで尾を引く事に。
そして他のアジア諸国の反発と調印が今回の一番の説明不足か。吉田演説を信じたから調印とは少々都合の良い解釈のような気がする。知識も乏しく推測するしかないが、やはり東西冷戦の本格化に答えがあるのでは。
不参加と思われたソ連らが会議に参加し、東側が不調印を呼びかけたことで、不調印イコール東側陣営に汲みするという図式になった。アジア諸国はこれを嫌って調印したのではないかと思う。だからこそ講和条約後に個別の賠償協定が必要になったのだろう。細かい会議の流れを追うのも重要だが、その背景はもっと大局的見地から説明して欲しかった。
吉田自身もこの条約と協定は不十分だと思っていたようで、後の世の課題だとの言葉を残している。吉田だけの名前で日米安全保障条約に調印した事で、彼は彼なりに筋を通したのだろう。吉田が全て悪いと言って自分達は何も考えずに済む問題ではない。私達国民一人一人が出来る行動は小さいものだが。
前回記事(その時歴史が動いた:吉田茂)
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サンフランシスコ平和条約の盲点―アジア太平洋地域の冷戦と「戦後未解決の諸問題」
吉田茂とサンフランシスコ講和〈上巻〉
吉田茂とサンフランシスコ講和〈下巻〉
沖縄問題の起源―戦後日米関係における沖縄1945‐1952
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