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【あらすじ】大和朝廷は天皇を豪族が支えていた。その双璧をなす蘇我氏と物部氏。百済から仏教が伝えられると、その導入を巡って大連(おおむらじ)の物部氏は反対、大臣(おおきみ)の蘇我氏は賛成に分かれた。欽明、敏達天皇は仏教導入を見送り、物部氏による排外政策が採られた。
蘇我馬子は585年に仏教に帰依し、敏達天皇崩御から物部氏との対立は深まる。病回復のため用明天皇が仏教の崇拝を表明し、実権は蘇我氏に傾く。物部守屋は兵を集め戦をするも討死。
588年、飛鳥寺の建設が開始され、百済から技術者や僧侶を招く。彼らから隋が強大な国家を建国した事を知った馬子は、国情視察で遣随使を派遣。飛鳥寺には文明国家の証という新たな使命が課せられる。
瓦葺き・基壇・礎石といった画期的工法で建築され、608年8月に隋からの使節が飛鳥に到着。609年に飛鳥寺は完成し以後、文字・建築・工芸など幅広い文化が栄え、原史から古代への文明開化となった。
【感想】◇
古代の文明開化の時を見る回。一つの寺の完成が実は、隋との対等外交・近代国家の証として大きな役割を果たしたのだという所がミソ。「なんとなく仏教」の日本でもその導入期にあっては、仏教が政争の具になり戦争の原因にもなったのか。
外交を担当していた大臣の蘇我氏は、渡来人との交流が多かったことから、仏教が文字や技術の革新を含んだ一大文化だと認識していたため、これを導入すれば国が多いに栄えるだろうと考え、仏教導入に賛成したのであろう。
一方、軍事を担当していた大連の物部氏は、日本古来の神々を祭る天皇を守ってきた自負があり、他国の神である仏教を崇拝すれば古来の神の逆鱗に触れると恐れたのだろうか。この時代は現代とは比べ物にならないほど古来の神への信仰が大きかった事は押さえておくべき。
正論は物部氏にある。だから一時は実権を握り、排外・拝崇政策で各豪族の支持も集めた。だが天皇の交代で蘇我氏は盛り返し、武略にも優れた蘇我馬子によって軍事担当の物部氏は敗れた。
飛鳥寺完成には606年説と609年説があり、最近の定説で609年と紹介されたが、遣随使が607年、隋からの使節が608年などの出来事だけから見ると、606年説の方が受け入れやすい印象を持った。解説の大橋一章氏も「モノが完成したから隋に対し(日出国の天子、日没する国の天子に送る。恙無や)と言えた」と発言し、微妙に606年説のような気もした。
前回記事
飛鳥の文明開化(今回の解説:大橋一章 著)
現代語訳 日本書紀
蘇我氏と古代国家
蘇我氏の正体―日本書紀が隠そうとした真実
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