| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【あらすじ】公家に仕える武士だった近松は、その公家が浄瑠璃好きだった縁で人形浄瑠璃の世界に魅せられる。武士を捨て浄瑠璃太夫に弟子入り、「世継曽我」で脚光を浴びる。それに竹本義太夫が着目し、近松門左衛門に書き下ろしを依頼。平家の景清を弱さを持った人物として主人公にした「出世景清」は新浄瑠璃と呼ばれる。
作者を名乗るのはおこがましいといわれた時代にあって、これ一本で生計を立てるのだという意味で近松門左衛門は作者を名乗った。坂田藤十郎と組んで歌舞伎作者となった近松はヒットを連発した。
元禄の世となって経済が頭打ちになると、商家は厳しい主従関係で屋号を守ろうとし、町人達に閉塞感や息苦しさが漂うようになる。そんななか起きた赤穂浪士討ち入りに庶民は喝采。一方、借金に苦しむ竹本義太夫から、また浄瑠璃を書いてくれと依頼された近松は
「命のない人形に情を持たせるのは容易ではない」
と考え悩んでいた。
近松は、曽根崎で起きた徳兵衛とお初の心中事件を浄瑠璃にする。封建社会で義理と人情の板挟みとなり、心中する事でしか愛を貫けなかった二人を題材にした「曽根崎心中」は、自分の身と重ね合わせる町人の涙を誘い、空前の大ヒットとなる。
【感想】◇
人間の心を描き、「人間ドラマの原点」と言われる曽根崎心中は、閉塞社会で溜まった人々の声なき声に応えた、町人に心を寄せる近松門左衛門が生み出したものだった。
徳川の世で武士の存在意義が薄れ、武士を捨てる一大決意で浄瑠璃世界に飛び込んだ近松。建前ばかりの公家や武家ではなく、本音で生きる町人の方が近松には魅力的だったのだろう。だから近松は英雄・豪傑の物語ではなく、人の弱さや身分の低い者の物語を書いた。
近松が歌舞伎作者に転向し、すっかり歌舞伎に客を取られた浄瑠璃。かつてパートナーだった竹本義太夫はその近松に浄瑠璃復活を依頼する。そこで悩む近松の分析が鋭い。人が演じるから感情移入させ易いのに、人形の浄瑠璃でどうやって客を満足させるか?相当のあらすじ、キャラ設定でないと無理だという事。
それを解決したのが曽根崎心中。社会的に反響を呼んだ事件を題材にしただけでなく、近松はなぜそれが大反響を呼んだのかを考察し、町人が社会の閉塞感を一時でも打ち破るものを望み、自己と重ね合わせに出来るものを望んでいるのではと思い至る。
名も無き二人が主人公で、義理と人情に押しつぶされる封建社会の無情を訴える曽根崎心中はこうして完成する。観客は貧しい町人。安い公演料で「明日は自分が主人公になるかもしれない」と思わせる人形浄瑠璃に町人は涙する。この勢いに恐れをなした幕府は、曽根崎心中を上演禁止にしたそうな。それほどまでに近松の脚本と町人の思いはリンクしていたという事だろう。
さて曽根崎心中誕生は「人間ドラマの原点」だけに、これが現在のテレビドラマや映画、アニメに相通ずるものを感じた。英雄物語よりも自分が主人公になれるかもと思わせる感情移入の手法。それでも一昔前は主人公への憧れも重要な要素だったが、最近(バブル後)はより等身大の主人公が人気を呼ぶ。
テレビドラマに限らずバラエティなども、タレントの「素」が重視され素人参加番組が多くなったのもこの流れの一環か。俳優ですらバラエティに出ると「素」が要求される。
心中という社会的事件を題材にするというのも、「テレビは社会の鏡」などと言われるものに通じる。直接、事件を扱う報道やドキュメンタリーを始め、テレビ番組は時代の空気を反映したものになっている。
「命のない人形に情を持たせる」というのはアニメで考えると分かりやすい。二次元のキャラにどう感情移入させるか。キャラ設定とあらすじに高度なものが要求される。よってアニメではテレビドラマよりも凝った作品が多々あるが、歌舞伎に人が流れ人形に見向きもしない時代があったように、世間一般ではアニメというだけで観ない(損をしている)人が多い。
しかしアニメでも、最近はあらすじよりもキャラ設定が重視されている。いわゆる「萌え」がその最たるものだ。執筆者は萌えを「弱さを描く」部分を最大限に生かし、欠落した部分への感情移入と解釈しているが、その解釈はともかく萌えがキーワードである事は確かだ。
あまりにもそのキーワードが先行し過ぎ、明らかに分かっていない人まで「萌え」を言い出したり経済本まで出したりしているのは滑稽。分かってないから嘲笑まで含まれたりしている総体はまさに「萌えバブル」であって、二次的・三次的な広がりで金を稼ごうとする主体やそれに躍らされる秋葉の状況など、何年か後には「あれは何だったのだろう」と思うような時が来るのではないかと思っている(ものすごく話が脱線した)。